ネタバレ注意「すずめの戸締まり」考察
ネタバレ注意「すずめの戸締まり」考察
先日、友人と観に行ってきました。観終わった後、友人とあれこれ語っていたのですが、その中で随分と合点がいった考察ができたので、文章として残したいと思います。
見終えた直後の感想は「エンタメが適度に持続して面白かったな」くらいでした。そこから友人と語り合う中で、友人の「この物語って結局、スタート地点から動いてなくね?」という言葉が発端となり、自分はこの物語を理解するには、「ダイジンとは何だったのか?」を考えないといけないなと思いました。
以下はその時の思考の殴り書きです。
起点;友人「堂々巡りで動きのない話やったな」自分「たしかに、、。いやそれ自体がテーマじゃないか?」
考察トピック
①要石(ダイジン)の存在
②なぜ草太は3本足の椅子になったのか
③最後に二人は何を選択したのか
①
・昔から日本人は要石で厄災を封じてきた
・その場所は時々で転々と変わっている
・草太の家系は代々閉じ師である。
・草太のお爺さんがサダイジンを尊んでいる
・草太が代わりに要石になりかけていた。
以上のことからダイジンは元人間で先代の閉じ師であり、今は要石として神に近い存在になり厄災を封じていると考えられる。
そして私は「君の名は」「天気の子」「すずめの戸締まり」は、角川春樹の「カエルくん東京を救う」が共通した下地であると考えている。(東京で地震。地震のメタファーがミミズなど)
「カエルくん東京を救う」は、「じつはこの世界は誰かが人知れず犠牲になって厄災を防いでくれているんじゃないか」というもので、「今現在というものは誰かが人知れず守ってくれた結果である」というメッセージが込められた作品。
「君の名は」では三葉と瀧の経験と思い出が犠牲になることによって、災害が最小限に抑えられる。逆に「天気の子」では帆高が陽菜の犠牲を拒否し、災害を受け入れた。いづれにしても「君の名は」と「天気の子」はどちらも、世界の裏側で人知れず犠牲になってきた人々を描きつつ、"今"を生きている人々を鼓舞する内容になっている。
それらのテーマを鑑みると、「すずめの戸締まり」のダイジンはこれまでの日本を支えてきた先代の閉じ師であり、世界の裏側で人知れず犠牲になることで、いずれ訪れる災害を抑えるという役割を担った、先代の老人であると想定できる。
ダイジンが「すずめの子になれなかった」と言っていたのも、輪廻転生的な意味で子どもになろうとしていたか、もしくは猫としてすずめの家族になろうとしていたか。いずれにしても生まれ変わろうとする行為。
すずめに「嫌い」と言われて萎えたり、交流して瑞々しくなる姿は、老人が孫と接する姿そのもの。
ダイジンは代替わりを狙っていたが、サダイジンは自らの意志でミミズを鎮めようとしていたので、まだ社会の役割を担う意志があったといえる。
そういえば巨大化後のサダイジンはどことなく草太のお爺さんに似ていた。サダイジンはお爺さんの直系の先祖か?
だから、お爺さんは先代のサダイジンを敬っていたし、サダイジンは願いを聞き入れて、すずめを見守り、要石の役割を全うしようとしていたのではないか。
①の結論;ダイジン(要石)とは先代の閉じ師であり、最後の社会的役割を担っている老人である。
①を想定すると②の答えも見えてくる。
②ダイジンは草太を椅子に変え、要石になるように誘導する。厄災を防ぐという自らの役割を終え、代替わりを狙っていた。
つまり、老人が社会での役目を終えて、次世代の若者に社会的犠牲の代替わりを強要していたとも言える。
そう考えると、3本足の椅子はスフィンクスの謎かけが由来ではないか。
すずめが幼少期に貰った椅子は4本足。時が経ち、すずめから大事にされることを忘れられた椅子は、杖をついた人間の如く、壊れかけた3本足の椅子となる。
②の結論;若者の草太を3本足の椅子に変える行為は、次世代の若者に要石の役割を担わせるプロセスを描いている。
では若者二人はダイジンの望み通り、日本社会の犠牲になったのか。そうはなっていない事は本編を見た通りである。
③若者二人が最後に選んだ答えは、「君の名は」のように自身が犠牲になることではなく、「天気の子」のように世界を捨てることでもなく、あがりを決め込んだ老人に要石の役割を延長させるというものだった。
しかし、それはただ無責任に老人に犠牲を押し付けるというものではない。すずめは自身が犠牲になる覚悟があったし、草太も一度はそれを受け入れていた。しかし、若い彼らは生きる事を求めた。日本社会の構造に気づき、自らの使命に気づき、そして延命を求めたのである。
③の結論;二人は自身たちの現状と先代の役割の延期を求めた
昔から日本人は、いつか来る終わりに向かって、破滅しそうになるとその度に祈りを捧げ、厄災を抑え、自然と共に生きてきた。
生と死の円環の中で、一つの扉を閉じ、また新たな扉を開く。そうやって日本人は過去と未来を繋いできた。
すずめが物語の最後に出会ったのは、震災で別れた母ではなく過去の自分。すずめは自分に出会って初めて気づく。あの時、命を渡してくれたのは母でもあるが、なにより自分自身であり、すでにもう受け継いでいたのだ。
自分自身が生きる事を望んだから今がある。生きる事教えてくれたのは母。母は先代から受け継ぎ、先代は先先代からそれを受け継いだ。
要石の役割はいつかは成す。でも今ではない。もう少しだけ今を生きて、いつか必ず未来に繋げる役割を果たす。
そんな円環に気付き、少しだけ前を向く物語が「すずめの戸締まり」なのだ。