星駆ける列車の窓辺

主に好きなアニメ、ゲームについて書いていきます。

方程式で解く「不死身の血族」

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小池ルパンの5作品に共通しているフォーマット。主役と敵役共通点、主役がピンチになる要素、その要素が終盤そのまま逆転する鍵になる。そしてこの3つの流れが物語の描きたいテーマとなる。

たとえば

「次元大介の墓標」では、次元とヤエルは互いに男の美学を持って戦っているガンマンである。次元には直感的な、ヤエルには論理的な戦いの美学があるが、直感的感情的であるが故に次元はヤエルに負けてしまう。しかし、終盤その直感的な戦い方であることが勝機を得る要因になり逆転する。その実、テーマは男のロマンであった。

「血煙の石川五ェ門」では、五ェ門とホークは互いに卓越した才能を持つ武術の達人である。五ェ門は自尊心と奢りという煩悩を持ち、ヤエルは殺人衝動という煩悩を持つが、五ェ門の持つ煩悩が原因でヤエルに負けてしまう。終盤は煩悩を払うことによって五ェ門はヤエルに勝利する。その実、テーマは悟りだった。

「峰不二子の嘘」では、不二子とビンカムは互いに人を操る能力をもつ。不二子は房中術で精神的に、ビンカムは花の毒を使って物理的に、対象者を操るのだが、房中術を使えない子どもが原因で不二子はピンチに陥る。終盤、成長したビンカムは性に目覚めた事によって、房中術にかかり、不二子が勝利する。その実、テーマは女の嘘であった。

「銭形と2人のルパン」では、銭形と偽ルパンは互いにルパン三世と似た存在である。偽ルパンは手段を選ばない精神性以外が、銭形は手段を選ぶ精神性がルパン三世と似ており、相手を逮捕する警察官であるという手段に縛られた銭形はピンチに陥る。終盤、警察官であることを貫き通し、義侠心が周りに伝播したことによって逆転し勝利した。その実、テーマは正義であった。

このフォーマットに劇場版も当て嵌まるように考えると

「不死身の血族」のルパン三世とムオムは互いに○○○同士である。ムオムは不死性を持つ存在であり、ルパンは非不死性を持つ存在であるが故に、身体によってピンチに陥る。終盤、非不死性を精神的に克服したルパンがその知恵により勝利する。その実、テーマは人生哲学であった。


このフォーマットに当て嵌めると、○○○はルパン三世とムオムは影武者であるという方程式が成り立つ。血族の作中でマモーがムオムの事を「別アプローチで不死を求める存在」「影武者、もう1人の私」と言っていたことも、アプローチの違うルパン三世が2人いるという考察の裏付けになっている。

私が「小池版複製人間」が必要だと思う5つの理由

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1つ目は「小池ルパン」と「原作複製人間」のキャラクター像の違い。

どちらも漫画と1stシリーズを下地にしてはいるのだけれど、小池ルパンはより一層1st前期に寄った関係性であり、一番の違いはやはり銭形のキャラクター。どうしても小池版のルパンと銭形が二人三脚でルパン音頭のイメージが思い浮かばないw


2つ目は「不死身の血族」のキャラクターデザイン。

「不死身の血族」でのルパン達の衣装はパブリックイメージの所謂、ジャケット姿のルパン、帽子を深く被った次元、トレンチコートの銭形、ではなかった。

「不死身の血族」はわざとそれらのイメージから外している様にみえる。それは「原作複製人間」へのリスペクト故、被らない様にしたとも思えるし、この後に「小池版複製人間」があった場合、お馴染みの服装でルパン一家が総登場する為の御膳立てにも思える。想像してみて欲しい。「小池版複製人間」の冒頭でフォーマルにキメる全員の姿を。熱くないですか?

 

3つ目は、登場人物全員が苦戦を強いられる「不死身の血族」の物語展開。

小池ルパンの中では「不死身の血族」だけが唯一、ルパン一家全員が苦戦する内容であり、それを逆転するルパン三世も引き分けの如く物語の最後に姿を消す。

ここが今作のカタルシスが弱いとされる所以であるが、もし次作があれば、寧ろ壮大な前振りとして機能するのではないか。

「不死身の血族」が、小池ルパン4作品の主役達の活躍を前振りにして、ルパン一家のピンチを演出していたように、「不死身の血族」での苦戦が「小池版複製人間」でのルパン一家の成長の一助として描けるのではないだろうか。

 

4つ目は、「原作複製人間」の外側の要素のみで構成された「不死身の血族」の作り。

表のマモー↔︎裏のムオム、世界規模↔︎孤立した島、(世界に必要な)偉人達↔︎(世界に不要な)ゴミ人間、精神↔︎肉体。

これらの要素で構成された「不死身の血族」は明らかに「複製人間」の外側のピースを埋める様になっているにも関わらず、上記1つ目の理由から「原作複製人間」とは繋がりづらい。むしろ「小池版複製人間」があれば、そちらの純度や完成度が上がる様なつくりに思える。


5つ目は、「不死身の血族」のエンドロール。

今までの小池ルパン4作品は、比較的ビターではあるものの終わり方がスッキリとしていて、音楽を含めて一区切り感があった。

「不死身の血族」はB'zの主題歌の後にジェイムス下地さんの音楽でエンドロールが流れるが、いかにも「続きますよ〜」感がある演出だった。もちろん「原作複製人間」への繋ぎなのかもしれないが、5作品の中で不死身の血族だけが後を引く音楽設計なのは完結を謳っている作品としては違和感が残る。

 

今現在「不死身の血族」は賛否両論な作品である事は間違いないが、「小池版複製人間」があれば、また違った角度で「不死身の血族」を評価できると思います。

 


以上、5つの理由で私は「小池版複製人間」が作られる事を願っています。

3回目、最後の不死身の血族の考察

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2回目の感想と考察をあげてから、自分の中の矛盾点と戦っていました。

というのも、「大隈ルパンを継承した小池ルパンがvs複製人間で処刑され、宮崎ルパンに繋がる」という事と「小池版複製人間を作る」という事がミスマッチしているのです。

複製人間をリメイクして欲しいがあまり、「別監督が宮崎ルパンを踏襲して小池作画で複製人間を作る」というウルトラCをもってして無理矢理に自分の考えの整合性を取っていました。

 


ですが、これおかしいですよね。大隈ルパンも宮崎ルパンも小池ルパンとして作ってしまうと、小池ルパンが独立したものになってしまい、小池ルパンで解決した大隈ルパンと宮崎ルパンの断絶問題を小池ルパンで再び断絶することになってしまいます。

そこで私、考えました。

 


実は「不死身の血族」で世界は分岐するのでは?

 


「いやいや使い古された手じゃーん」と思うかもしれませんが、まぁ聞いてください。

「不死身の血族」の最後でマモーが四次元ドライブシステムを起動し、島を消滅させました。その時、空に映し出されるのはまるで宇宙の様な景色でしたよね?無音の演出をしていることからも宇宙を表しているとみて間違いないでしょう。

ジェイムス下地さんのXによると、小池監督からオーダーされた音楽イメージは「宇宙」だったそうです。

であれば、あそこで宇宙が生まれた。つまり、世界が2つに分岐したのではないでしょうか?

不死身の血族から原点の複製人間を経て宮崎ルパンへ繋がるラインと、小池版複製人間へ繋がるライン。

つまり、複製人間の処刑されるルパンが大隈ルパンか宮崎ルパンかで世界が分かれるのです。

 


そうすれば、小池健版の複製人間を作りだす理由が生まれ、旧複製人間と同時に新複製人間が存在する事が可能となり、更に、「あの時、もし大隈ルパンが続いていたら」というifのルパン制作ラインを作り出せる。

ここまで見越した上で、脚本を書き上げているのではないでしょうか。夢が膨らみます。

どこまでいってもあくまで願望だし、望みは薄いかもしれませんが、辻褄は合っていると思います。


小池ルパン待ってますよ!小池ルパン制作チーム頑張れ!!!!

不死身の血族(2回目鑑賞)感想

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「不死身の血族」2回目を鑑賞してきました。この作品が好きなことを大前提として感想を言うと、

1回目よりもモヤモヤしました。

 


というのも、1回目の後に「vs複製人間」が無性に観たくなって鑑賞したんですよ(不死身の血族がそういう作りだったので)。そうしたら不思議と違和感を覚えました。やはり、「不死身の血族」は小池健の味付けが濃い作品なので、キャラクターの設定や声優陣の演技含めて「vs複製人間」と繋がるように見えないんですよ。

という事は、「不死身の血族」を観た後に感じた「複製人間」を観たい衝動は、原典を見たいのではなくて、文字通り「不死身の血族」の続きとしての小池ルパンが観たいって事だったんだと気づいちゃったんです。

そうなると、2回目の鑑賞を終えた後は、消化不良感が自分の中に湧いてきました。1回目の満足感は複製人間につながる事が前提の感覚だったのです。これを解消するには結論を言えば、

 


「小池版vs複製人間」を作ってください!!!

 


それで全て解決します。

正直な話、不死身の血族は単体の映画としての完成度は低いです。それは今作が、「前4作の下地ありき」で始まり「複製人間」への繋ぎで終わっているからです。起承転結で言うならば、承転のみの作品になっているのです(前4作の出来の良さも拍車をかけています)ですが、前4作の続編としてまたは次への前日譚として見るなら一定の評価ができると思います。

 


前回の感想考察で素晴らしい作品と言ったのは本心です。作画はやはり素晴らしいものがありました。始まりから終わりまで常に動いていますし、アクションシーンのケレン味溢れる動きは惚れ惚れしますからね。ただしそこも、長編作品であるが故に小池監督のコントロールが細部までは及んでおらず、作中のキャラクターデザインに乱れが生じています。

私が当時「峰不二子という女」の1話を観た時に大感動して2話以降に感じた違和感と感覚が似ています。

そもそもザサードシリーズ小池ルパンは浄園プロデューサーが言っていた、小池健の手の及ぶ範囲を広げて、「小池濃度を増やす」事が第一コンセプトだったはずです。長編作品を作るのであれば時間がかかって然るべきなのです。

が、今作はスケジュール管理がうまくいっていなかった事が明白になっています。

 


そのあたりはBlu-ray化の際に修正をかける事もできますから、一抹の希望を抱いていますが、興行が芳しくなければ切られるだけでしょう。

 


でも私は諦めたくない。12年間の最後がモヤモヤして終わるなんて絶対に嫌です。

前回の考察は自分の中でもまだ生きていますから、それを踏まえて、もし続編があった場合の考察の辻褄を合わせてみたいと思います。

 


前回に語った「小池ルパンは大隈ルパンであり、複製人間で処刑されるルパンである」はそのままに続編では一層、宮崎以降に近い関係値になったルパン一味を描く作品になるのではないでしょうか(原作で言えば新ルパンになる感じ)。そうなればもはや、ザサードシリーズでもなく、監督さえも違う人がするのかもしれません。※後述

思えば、不死身の血族に至るまでも徐々に関係値が皆んなの思っている一味に近づいていた訳ですから違和感はありません。

 


不死身の血族でマモーが「機は熟した。これでクローン計画を最終段階うんぬん」と言っていたのは、世界中の要人偉人のクローンを作って世界に彼らと自分と不二子だけを残す計画を始めよう!という事でしょう。ですから続編ではもしかしたら、今までの小池ルパンの敵役が総登場するかもしれません。そして、次五峰銭は再び各ライバルと戦うが、以前よりも圧倒的な力でライバルをねじ伏せる。もしそうであれば、不死身の血族でヤエルが散り際に再戦を願った事も、峰嘘でホークのクローンが出た事も、血族で一瞬ビンカムの死後の研究写真が出た事も、偽ルパンがマモーとの関係を匂わせたのも、全て伏線として回収できます。

 


今回で小池さんが「今後は作り方を考えなければいけない」と言っていることから、制作体制ももしかしたら変わって、小池さんは作画監督キャラクターデザインとして参加し、監督は別の方がされるかもしれません。「REDLINE 」と同じ様に石井克人さんを総監督に据えるか、もしくは別の人か。希望としては渡辺信一郎氏も良いと思います。

 


制作体制を一新するという事は、ザサードシリーズという枠組みも外れるかもしれません。そうすると「ルパン三世」という名称が使えるので、今よりも広告も打ちやすく、広報も動きやすくなるでしょう。

 


あれw?考察というより私の願望になってしまいましたwお許しください

 


「不死身の血族」は4作品の繋ぎとしては、または前日譚としては、良い作品なんです。

だから是非続編を作って、「不死身の血族」の意義を高めて欲しいと切に切に願っています。

それまで私は、Blu-rayやグッズ、小池ルパンの応援を絶やしません。ほんとに好きなんです。


インタビューで小池さんは「僕のルパン三世は終わりです」と言っていますが、同時に「お声がけがあれば真剣に考える」とも仰られています。なので、私は希望を捨てません。

私は小池ルパンの復活をいつまでも待ち続けます!!だって

 


「もっと面白いもん見つけちまったからなぁ」「そのうち会えるさ」

 


そうでしょう?

LUPIN THE lllRD 不死身の血族 感想と考察

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今回、小池ルパンシリーズの集大成としての「不死身の血族」を観ての感想と考察を述べたいと思います。


最初に、私はこの「不死身の血族」は大変素晴らしいモノであったと思っています。

 

不満点もないわけではなくて、魅力のあった幾つかの敵と勝負を付けずに幕を下ろすところ、ルパン以外のルパン一家の活躍が少し弱いところが挙げられます。  

 しかし、作品評価を加点方式で考えると、それらの不満点なんて小さいものです。 確かにルパンらしい分かりやすいカタルシスが少ないと言う意見も分かるし、前4作の小池ルパンに比べてハードボイルド要素が少し減ったのも分かる。  

 

 でもカタルシスがないのかというとそうではなく、小池イズムがあるアクション作画は、常にクライマックス級と言っていい品質であり、それが映画の始まりから終わりにかけて繰り広げられる。  

 このアクション作画こそがアニメーションにおけるカタルシスであり、脚本を超えた弩級の評価点なのです。

 

脚本自体は超シンプルで、「ルパン三世が黒幕に導かれて訪れた奇怪な島で、黒幕とその一味に追われながらも脱出する話」それだけ。  

 シンプルすぎるが故に、作品のテーマが薄く感じられるかもしれないけど、私にはそうは思えません。

 この映画が公開される前、私が考察していたことを鑑みると大きなテーマが浮かび上がってくると思うのです。

そもそも、映画公開前のキャッチコピー「すべてのルパンに繋がる物語」とはなんだったのか。

 

 私は小池ルパンは「大隈ルパンと宮崎ルパンに橋をかける存在」だと思っています。それが「全てのルパンに繋がる物語」という事だとしたらどうでしょうか。

 小池さんが「1st前期に挿入されていてもおかしくないものを作る」とおっしゃっていることから小池ルパンは大隈ルパンの継承を目指したとみて間違いないでしょう。また、漫画原作の事にも深く触れられているのでモンキー先生の世界観の継承も間違いない。

ではなぜ「vs複製人間」に繋がる様に物語を締めたのか。もちろん「vs複製人間」の世界観が1st前期と漫画原作のテイストが濃い作品だからというのもあるでしょうが、「vs複製人間」に少しの前日譚を追加すれば、大隈〜宮崎の橋になると小池監督は思いついたのではないでしょうか。

 

「不死身の血族」のラストでムオムを倒したルパンは消息不明になります。その後、墓地で銭形に一報が入り、「ルパン三世が逮捕されました」と言われる。  この逮捕されたルパンこそが、小池ルパンであり、複製人間冒頭で処刑されるクローンルパンなのではないか。  

 つまり、今までみてきた小池ルパンは大隈ルパンであり、宮崎ルパンとは違うもう1人のルパンなのではないかという事です。

 マモーの鏡像であるムオムは、永久的な"肉体„こそが不死に必要だと考えました。一方、肉体は邪魔と考えたマモーは"意識„の継続性こそが不死に必要だと考えます。

 

「不死身の血族」でルパンはムオムを倒し、ムオムの肉体的な不死性を否定する。言うなれば小池ルパンは肉体的な死を受け入れているのです。  (思えば、小池ルパンシリーズが生身感を伴うリアリティのある描写をしてきたのも、この伏線だったのでは) そうであれば小池ルパンがいずれ処刑されるクローン体であったとしても納得できます。  

 一見、「小池ルパンがクローンなんて」と思ってしまうかもしれませんが、クローンであるか本物であるかは大した問題ではなくて、自身こそがルパン三世だという認識こそが重要なのです。

 

 「vs複製人間」で示される通り、ルパンに重要なのは、刹那的な意識、色すなわちこれ空なり、ということですから。

 

パンフレットの石井克人さんのインタビューに「人間の意識は夢であり、現実はもっと曖昧なのかもしれないという哲学的発想」を元に「不死」をキーワードにした。とあります。

 

「不死身の血族」でルパンが「人生はフィクション、楽しむだけさ」と言うのは、正に「真偽はどうであれ目の前の状況と人生を楽しむだけさ」ということではないでしょうか。

 本棚からルパンの歴史書を捨てたのも、ルパン一族の実存が重要なのではないという事かもしれませんし、実は123はミスリードで血筋を表すものではなく、クローンの番号であり、ルパン1(大隈)、ルパン2(爆弾偽)、ルパン3(宮崎)の真実を海へ流したのかもしれません。  

 

 いずれにせよ「不死身の血族」が素晴らしいのは、「vs複製人間」で処刑されるクローン体は小池ルパンなのか、そうでないのか、どちらとも受け取れる様になっている事です。

好きな解釈でよいのです。

 「ルパン三世とは如何なるモノ」という長年の論争を激化させずに、「我が我である事への誇りを大切にするルパン三世の哲学」を尊重しつつ、テーマ的な矛盾なく大隈ル〜宮崎ルの"橋„になっているのです。

 

(追記)

他のキャッチコピーが「さらばルパン」だったり「貴方はまだ本当のルパン三世を知らない」であったり、作中の「無くした時に初めて気付く」という台詞だったり、この考察の裏付けがいっぱいあるなぁ。また観にいって確認せねば!

ネタバレ注意「すずめの戸締まり」考察

ネタバレ注意「すずめの戸締まり」考察

先日、友人と観に行ってきました。観終わった後、友人とあれこれ語っていたのですが、その中で随分と合点がいった考察ができたので、文章として残したいと思います。

 

見終えた直後の感想は「エンタメが適度に持続して面白かったな」くらいでした。そこから友人と語り合う中で、友人の「この物語って結局、スタート地点から動いてなくね?」という言葉が発端となり、自分はこの物語を理解するには、「ダイジンとは何だったのか?」を考えないといけないなと思いました。

 

以下はその時の思考の殴り書きです。

 

起点;友人「堂々巡りで動きのない話やったな」自分「たしかに、、。いやそれ自体がテーマじゃないか?」

 

考察トピック

①要石(ダイジン)の存在

②なぜ草太は3本足の椅子になったのか

③最後に二人は何を選択したのか

 

・昔から日本人は要石で厄災を封じてきた

・その場所は時々で転々と変わっている

・草太の家系は代々閉じ師である。

・草太のお爺さんがサダイジンを尊んでいる

・草太が代わりに要石になりかけていた。

 

以上のことからダイジンは元人間で先代の閉じ師であり、今は要石として神に近い存在になり厄災を封じていると考えられる。

 

そして私は「君の名は」「天気の子」「すずめの戸締まり」は、角川春樹の「カエルくん東京を救う」が共通した下地であると考えている。(東京で地震地震のメタファーがミミズなど)

 

「カエルくん東京を救う」は、「じつはこの世界は誰かが人知れず犠牲になって厄災を防いでくれているんじゃないか」というもので、「今現在というものは誰かが人知れず守ってくれた結果である」というメッセージが込められた作品。

 

「君の名は」では三葉と瀧の経験と思い出が犠牲になることによって、災害が最小限に抑えられる。逆に「天気の子」では帆高が陽菜の犠牲を拒否し、災害を受け入れた。いづれにしても「君の名は」と「天気の子」はどちらも、世界の裏側で人知れず犠牲になってきた人々を描きつつ、"今"を生きている人々を鼓舞する内容になっている。

 

それらのテーマを鑑みると、「すずめの戸締まり」のダイジンはこれまでの日本を支えてきた先代の閉じ師であり、世界の裏側で人知れず犠牲になることで、いずれ訪れる災害を抑えるという役割を担った、先代の老人であると想定できる。

 

ダイジンが「すずめの子になれなかった」と言っていたのも、輪廻転生的な意味で子どもになろうとしていたか、もしくは猫としてすずめの家族になろうとしていたか。いずれにしても生まれ変わろうとする行為。

 

すずめに「嫌い」と言われて萎えたり、交流して瑞々しくなる姿は、老人が孫と接する姿そのもの。

 

ダイジンは代替わりを狙っていたが、サダイジンは自らの意志でミミズを鎮めようとしていたので、まだ社会の役割を担う意志があったといえる。

 

そういえば巨大化後のサダイジンはどことなく草太のお爺さんに似ていた。サダイジンはお爺さんの直系の先祖か?

だから、お爺さんは先代のサダイジンを敬っていたし、サダイジンは願いを聞き入れて、すずめを見守り、要石の役割を全うしようとしていたのではないか。

 

①の結論;ダイジン(要石)とは先代の閉じ師であり、最後の社会的役割を担っている老人である。

 

①を想定すると②の答えも見えてくる。

 

②ダイジンは草太を椅子に変え、要石になるように誘導する。厄災を防ぐという自らの役割を終え、代替わりを狙っていた。

つまり、老人が社会での役目を終えて、次世代の若者に社会的犠牲の代替わりを強要していたとも言える。

 

そう考えると、3本足の椅子はスフィンクスの謎かけが由来ではないか。

 

すずめが幼少期に貰った椅子は4本足。時が経ち、すずめから大事にされることを忘れられた椅子は、杖をついた人間の如く、壊れかけた3本足の椅子となる。

 

②の結論;若者の草太を3本足の椅子に変える行為は、次世代の若者に要石の役割を担わせるプロセスを描いている。

 

では若者二人はダイジンの望み通り、日本社会の犠牲になったのか。そうはなっていない事は本編を見た通りである。

 

③若者二人が最後に選んだ答えは、「君の名は」のように自身が犠牲になることではなく、「天気の子」のように世界を捨てることでもなく、あがりを決め込んだ老人に要石の役割を延長させるというものだった。

 

しかし、それはただ無責任に老人に犠牲を押し付けるというものではない。すずめは自身が犠牲になる覚悟があったし、草太も一度はそれを受け入れていた。しかし、若い彼らは生きる事を求めた。日本社会の構造に気づき、自らの使命に気づき、そして延命を求めたのである。

③の結論;二人は自身たちの現状と先代の役割の延期を求めた

 

昔から日本人は、いつか来る終わりに向かって、破滅しそうになるとその度に祈りを捧げ、厄災を抑え、自然と共に生きてきた。

 

生と死の円環の中で、一つの扉を閉じ、また新たな扉を開く。そうやって日本人は過去と未来を繋いできた。

 

すずめが物語の最後に出会ったのは、震災で別れた母ではなく過去の自分。すずめは自分に出会って初めて気づく。あの時、命を渡してくれたのは母でもあるが、なにより自分自身であり、すでにもう受け継いでいたのだ。

 

自分自身が生きる事を望んだから今がある。生きる事教えてくれたのは母。母は先代から受け継ぎ、先代は先先代からそれを受け継いだ。

 

要石の役割はいつかは成す。でも今ではない。もう少しだけ今を生きて、いつか必ず未来に繋げる役割を果たす。

 

そんな円環に気付き、少しだけ前を向く物語が「すずめの戸締まり」なのだ。

 

 

 

(ネタばれ無し) 「このゲームは神ゲーではない!」デスストランディング 評-ゲームデザイン編 その1

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デスストランディング の私的評価が定まってきた。

結論から言うと、「デスストランディング 」は神ゲーではない(理由は最後に)。でも、今年一番ハマった。そして"オープンワールドゲーム"で初めて最後まで完走した作品になった。

従来のOWゲームはフィールドを大きくするあまり、点在するメインミッションやサブミッション、ミニゲーム間の距離が遠くなり、"移動"にかかる比重が増えていった。

しかし、ゲームの歴史の中で"移動"は、その快適性を高める方向にしか進化していなかった為、どこまでいっても"ファストトラベル"が終着点となる。フィールドを広くすればするほど、箱庭である必要がなくなってしまう。

また、OWゲームはミニゲームやサブミッションで、如何に多くの寄り道ができるかという方向にも進化してきた。その為、遊びの要素を増やせば増やすほど、主軸の遊びの優先順位が下がり、ゲームの骨子となる部分に副次的な印象を与えるようになってしまった。

 


これら2つのジレンマを、従来のOWゲームは常に抱えていた。

 


そこでデスストランディング は、「移動」を"遊びの主軸"に据える事で、フィールドの広さに必然性を与え、箱庭であることに意味を持たせている。

また、従来のOWゲームにおけるミニゲームの要素を"移動の過程"に入れ込んでしまうことで、主軸の遊びの優先順位も下げていない。

デスストランディング はOWゲームのジレンマをアイデアで解消しているのである。

僕がこのゲームを最後までプレイできたのは、この部分が大きいんじゃないかなと推測している。

 

考えてみれば、"移動すること"それ自体を楽しむゲームは今までにもあった。それも一番有名なゲームで。「マリオブラザーズ」である。

小島監督は、伝説の存在である「マリオブラザーズ」に倣い、OWゲームにステージ攻略という要素の原点回帰を図ったのだ。

更に、それだけに終わらせず、インターネットを使った遊びを1人用OWゲームに織り込み、ゲームを次の段階に進めたのである。(ストランドシステムについては、また後日)

そんなデスストランディング 。僕は冒頭で、このゲームは神ゲーではないと言った。

が、その真意は「ゲームを次の段階に進めた作品に、従来から存在する"神ゲー"という言葉を当てはめるのには違和感を感じる。」ということだ。

 

「デスストランディング は"神ゲー"ではない」

 

ふさわしい言葉が見つからないが、僕が言うとするなら、デスストランディング はゲームの進化の結び目。ホモ・ルーデンスが創った作品。

 

 

"人類が遺す芸術品"である。