星を駆ける列車の窓辺

主に好きなアニメ、ゲームについて書いていきます。

デスストランディング 予想!!

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いや〜今年も「E3」が迫ってきましたね!
色々なゲームの発表が、今からすごく楽しみです。
僕は、生粋の小島秀夫ファンなので、勿論!!「deathstranding 」が本命な訳なのですが、ここいらで「E3」に向けて「ストーリー」と「ゲームプレイ」の予想をしておこうかなと思います。

PV1  https://youtu.be/2hSaMJ4GS64

PV2  https://youtu.be/zHFYSR1J5Fk

PV3  https://youtu.be/0kBjkFNoePY

 

目次
1.ゲームの舞台は何処か。
2.ゲームの構造その一
3.ノーマンとマッツ
4.異形の正体
5.ゲームの構造その二
6.赤ちゃんの正体
7.デスストのテーマ

 


1.ゲームの舞台は何処か

デスストを考える上で、まず最初に考えたいのはゲームの舞台。
参考にしたのは「兵器」です。

pv2、沢山の兵隊達が行脚しているシーンで兵隊が持っている銃は、「Mー1〜3カービン」。飛んでいる飛行機は、「p47」に見えます。
これらは全て、第二次世界対戦中に使われた兵器なのですが、pv2最後に出てくる「兵士達を操る司令官らしき人物」は、WW2以降の1994年に開発された後継機「Mー4カービン」を持っています。
使用武器の年代がバラバラですが、少なくともここで分かるのは、デスストは「地球」を含めた舞台の設定である可能性が高いということです。

 

では、「時代設定」いつなのか。


参考にしたのは、pv1でノーマンがつけている「手錠」とpv3でノーマン達が身につけている「ロボティクスアーム」。

「手錠」は、青色に発行しており、既存の手錠には見えません。また、「ロボティクスアーム」も既存の道具には見えませんでした。
技術的にも現代では再現できそうに見えません。
これが「近未来のもの」なのか「あり得たもう1つの現在」なのかは分かりませんが、ここでは、2つを合わせて「あり得たもう1つの近未来」であると仮定します。

デスストの舞台は「あり得たかもしれない地球の近未来

 

2.ゲームの構造その一

ゲームシステムについて、小島監督が明言している事がいくつかあるのですが、その1つが、「生と死の循環システムーコンティニューシステム」です。

 

以下 インタビュー記事抜粋
ーー小島監督によれば「DEATHSTRANDING」における死は次のようになっているようだ――現実世界に戻る準備が出来たら、自分の肉体を探し出して中に入る。しかし、通常のゲームとは違い、「DEATH STRANDING」はプレイヤーの死を認め、かつ歓迎すらしているようだ。プレイヤーは死ぬ直前ではなく、自分が死んだ直後の世界に戻る。――「DARK SOULS」やローグライクの作品のように、プレイヤーの行動はある意味、死後もインパクトを残しているのだ。ビデオゲームならば死のメカニクスはどこにでもあるが、小島監督は三途の川や転生にインスパイアされたシステムを作っているようだ。ーー

 

この発言から、ゲームシステムの一部に「生と死の循環システムーコンテニューシステム」が組み込まれていることは確実です。

更に、PV内で、ストーリー上においても「生と死の循環」が組み込まれていることが読み取れる描写があります。

それがPV1での、「臍の無いノーマン」です。


「臍が無い人類」という設定が出てくる有名な著書に、アーサーCクラークのSF小説「都市と星」があります。

 

「都市と星」 あらすじ

ーー遙か未来、銀河帝国の崩壊によって地球に帰還することを余儀なくされた人類は、誕生・死さえも完全管理する驚異の都市ダイアスパーを建造、安住の地と定めた。住民は都市の外に出ることを極度に恐れていたが、ただひとりアルヴィンだけは、未知の世界への憧れを抱きつづけていた。そして、ついに彼が都市の外へ、真実を求める扉を開いたとき、世界は…ーー

 

この物語では、ダイアスパーで生死を管理された人類は、死しても新たな肉体に同じ精神で舞い戻ることが可能になっています。
そして、その能力を持った人間は、「新たに生まれることがない」その証として臍がないのです。

PV1の「臍の無いノーマン」は、死しても新たな肉体に同じ精神で舞い戻ることができる存在であることの示唆、だと僕は考えています。
しかし、あくまでも同精神で戻れるのはノーマンだけの能力。
PV3の海が、「三途の河」や「生命が還る場所」としての描写であるとすれば、そこには様々な生物が確認できたので、「生と死の循環」自体は全ての生命に存在する輪廻転生的な設定だと考えています。

ゲーム構造の1つに「生と死の循環システムーコンティニューシステム」がある。
その能力を持っていることの示唆が、「臍の無いノーマン」であり、ストーリーにも「生死の循環」が組み込まれている。

 

3.ノーマンとマッツ

登場人物達にはどのような設定があるのでしょうか。

PV3内のノーマン達が着ている防護服に、「porter(運搬者)」「死体処理班」の記述があります。
どういうこっちゃ?と一瞬思いましたが、先に考察した「生と死を循環」とPV3の出来事を念頭に置けば、なんとなく見えてきました。

PV3で出てくる異形に捕まったノーマンの仲間をもう1人の仲間が射殺してしまいます。そして、自身も異形に捕まると銃で自決しようとしています。
これは、異形に捕まることが「死」よりも怖いと思っているということではないでしょうか。
だから、死体袋に入った人間も異形に捕まって消える時に、「イヤイヤイヤ!!」となっていたんじゃないかな。

「死」よりも怖い。つまり、異形に捕まるということは、「生と死の循環」から外れるということ。だからこそ、ノーマン達は死体袋が異形に捕まる前に処理しようとしていたんじゃないか、と思います。
死体袋を運搬するから「porter」。

 

一方の、マッツ達。
PV2の終盤に兵隊を引き連れていたマッツがとっていたハンドサインとPV3で防護服の男がとっていたハンドサインが一緒なので、どちらも同じ人物だと思います。
PV3でマッツがハンドサインをすると、ノーマン達が異形に襲われました。このことから、マッツ達はノーマンの敵だと考えます。
マッツは、異形を操る存在か又は操られる存在で、ノーマン達と対称の目的を持っているのではないでしょうか。
つまり、マッツ達は異形にノーマン達や死体袋を捕食させて、「生と死の循環」から外そうとしているのではないかと思います。

PV3の海の中、臍帯のついた生物は動いていましたが、一部の人間は動かず海面に浮いていき、異形に捕食されている描写がありました。この人達は現世で異形に魂を捕食されて「生と死の循環」から切り離された存在であることの示唆なのかなと思います。

ノーマン達は死体処理班。彼らは人々が異形に捕食されることを防ぎ、「生と死の循環」から外れないように魂を守ることが目的。
マッツ達は人々を異形に捕食させて、人々の魂を「生と死の循環」から外すことが目的。

 

4.異形の正体

では、人々を捕食する異形の正体は何なのか。
PV3では、様々な形の異形が登場していますが、どの異形の特徴も当てはまる存在が出てくる作品群があります。それが「クトゥルフ神話」です。

 

以下wikiより抜粋

ーー「クトゥルフ神話」パルプ・マガジンの作家であるハワード・フィリップス・ラヴクラフトと友人である作家達の間で架空の神々や地名や書物等の固有の名称の貸し借りによって作り上げられた架空の神話体系。太古の地球を支配していたが現在、地上から姿を消している強大な力を持つ恐るべき異形のものども(旧支配者)が現代に蘇ることを共通のテーマとする。そのキャラクターの中でも旧支配者の一柱、彼らの司祭役を務め、太平洋の底で眠っているというタコやイカに似た頭部を持つ軟体動物を巨人にしたようなクトゥルフが有名である。ーー

 

クトゥルフ神話には様々な神がいます。
PV3の光る巨人をよく見てみると、頭部にタコの足の様なものが生えています。これは「クトゥルフ」が由来なのかもしれません。

 

クトゥルフ
ーータコに似た頭部、頭足類のような触腕を無数に生やした顔、巨大な鉤爪のある手足、水かきを備えた二足歩行の姿、ぬらぬらした鱗かゴム状の瘤に覆われた数百メートルもある山のように大きな身体、背にはドラゴンのようなコウモリに似た細い翼を持った姿をしているとされるーー

 

また、光る体は、「イゴール・ナク」が由来なのではないでしょうか。

 

イゴール・ナク」
ーーその真の姿は、頭部が無く、裸で両手に口のある太った男の姿をしている。そして体は白熱しているという。
悪行と背徳の邪神であり、自らが直接手を下さず、崇拝者に悪事を行わせることにより、精神的な堕落をこの世にもたらす。悪の素質がある人間がイゴールナクと接触を持つと、イゴールナグはその者を唆し、更なる悪行と堕落を行わせる。
悪に堕落しきった所で、その者に乗り移って吸収する。吸収した人間の姿から真の姿まで、変幻自在に変身できるという。ーー

 

イゴール・ナクの説明の、「悪の素質を依り代に力を貸す性質」から、マッツは異形を操っていると同時に、操られている状態であるとも言えそうです。

マッツを吸収しきった物語終盤では、マッツが異形そのものに変身するかもしれませんね。

PV3で、降る雨は、小島監督曰く「タイムフォール」と呼ばれるものらしいです。

別の世界の雨であり、雨に触れたものは、急速に時間が経過するらしい。

これは、クァチル・ウタウスの時間干渉能力が由来なのではないでしょうか。

 

「クァチル・ウタウス」

ーー時空を外れた辺獄のような領域に住むとされる人間型の神。小さい子供ほどの大きさしかなく、悠久の時の中で朽ち果てたミイラのような萎びた姿をしている。
手足はひきつれて硬直して動かない。頭髪も目鼻もなく、全身がひび割れのような網目状の皺に覆われている。
 スミスの「塵を踏む者」の記述では「一度も呼吸したことがない中絶胎児のようだった」とある。
時間に影響を与えることができ、不死の力を与えると信じられ、魔術師に求められる。 クァチル・ウタウスに触れたものは例外なく即座にとてつもない時間が経過したかのごとく塵と化す。この性質のため、クァチル・ウタウスに対して害を与えようとする行為の全ては無意味であると断定されている。ーー

 

ここで気付くのですが、クァチルウタウスの説明にある「不死の力を与える」という一文。

これは「生死の循環」のモチーフにあたるものに思えます。クァチルウタウスが主人公側の設定にも一枚噛んでいるということではないでしょうか。
そう考えれば、主人公側にクァチルウタウスの特徴を持った存在がいる事にも気付きます。
そう「赤ちゃん」です。


ー人間型の神で、一度も呼吸したことがない中絶胎児ー


これが正に、「赤ちゃん」のことを指しているのではないでしょうか?

 

敵の正体は「クトゥルフ神話」の神々をモチーフにした侵略者達。マッツに力を与え、取り込もうとしている。「クァチルウタウス」は主人公側の「赤ちゃん」のモチーフでもある。

 

5.ゲームの構造その二

明言はしていませんが、小島監督が仄めかしているネットワークシステムがあります。

 

小島監督
ーー「アクションゲームに登場するツールのほとんどは“棒”です」「殴るか、撃つか、蹴るか。コミュニケーションは常に“棒”を通して行われます。(DEATH STRANDINGでは)人々に“棒”で交流するのではなく、“縄”に相当するものを通じて交流してほしいと思っています…もちろん棒を使うこともできますが」
「今までのオンラインゲームとはちょっと違います」「今はまだ言えませんが、オンラインは重要な要素です。今までのオンラインゲームとは違ったことをやりたいのです」ーー

 

どうやら小島監督は、「縄」を使ったオンラインシステムを考えている様です。

更に、それは従来のゲームのオンライン要素とは一味違う。


では、それはどういったものになるのか。

 

最初の取っ掛かりとして、PV1の中でノーマンが付けているネックレスに注目してみました。
6つのドッグタグのような物には様々な数式が書かれています。
数式の意味を調べてみると、シュワルツシルト半径 やディラック方程式 などの現代物理学であることがわかりました。
これらの数式は、全て宇宙の理を紐解く断片であるとされています。
それをノーマンが身につけているという事は、「デスストランディング 」の世界設定に、現代物理学を用いた宇宙の理が関係している様な気がします。

実は、小島監督は数年前に現代物理学の1つとされる、ある学説をツイッターでRTしていました。


それが、「超ひも理論」です。


超ひも理論、、、ひも、、縄、、うむむ!!何かヒントがありそうです。

僕は、「超ひも理論」が、オンラインシステムの構成要素になるのではないかと予想しています。

 

ーー超ひも理論とは物質の究極の要素は「粒子」ではなく「ひも」であるというもの。
超ひもの世界は10次元である。通常、4次元空間は直線上になっているが、残りの6次元は丸く閉じている。
そのひも同士には相互作用があり、たとえば2つのひもが重なって1つのひもになることがある。
また、超ひも理論を唱える上で重要な超対称性理論。それは、既知のすべての粒子に未発見のパートナーが存在するとする理論である。ーー


宇宙は、多次元で構成されており、どの粒子にも、それぞれ対応した異なるパートナーが存在している。

さらに丸く閉じコンパクト化された異なる次元は、1つに集束されたりもする。

全てはひもで繋がっており、そこを振動することによって、1つが全てに影響する。

 

これは!!!オンライン要素に使うにはぴったりの設定です!

 

超ひも理論とゲームの世界設定を併せて考えると、デスストランディング の宇宙は多次元の平行世界で構成されており、それぞれに対応した異なるパートナー(キャラクター)が存在している。

そして、それぞれの世界は1つに集束していく。
全ては、ひもで繋がっていて、各世界の出来事は宇宙全体に影響する。という事じゃないでしょうか。

 

オンラインシステムとして具体的に言うと、各プレイヤーはそれぞれのオープンワールドを探索進行していく。

やがて、ノーマンを基点にそれぞれのオープンワールド情報が重なっていき、1つのオープンワールド(宇宙)になる。


これまでの、ゲームのオンライン(互いの世界に介入し、協力や対立するもの)ではなく、自分の世界を他人の世界と融合させていき、全てがオンラインで繋がるゲームを小島監督は考えているのではないでしょうか。

デスストランディング のオンライン要素は、自分のオープンワールドと他人のオープンワールドを1つにしていくもの。

 

6.赤ちゃんの正体

「生と死の循環を使ったコンティニューシステム」と「各プレイヤーのオープンワールドを融合していくオンライン要素」を考えると、新たに導き出せることがあります。

それが、赤ちゃんの正体です。

PV3で死んだノーマンが三途の河に沈んだ後、現世で抱いていた赤ちゃんが体の中に入っています。その後にノーマンは現世で目覚める。
これは「クァチルウタウス」が由来の「赤ちゃん」とノーマンが契約を交わし、不死の力(同精神で肉体に戻る能力)を得た描写ではないでしょうか。

 

そして小島監督曰く、

ーープレイヤーは「DEATH STRANDING」で死ぬと、この場所(三途の河)に送り込まれ、一人称視点で周囲を探索することができる。ノーマンの特殊な能力により、プレイヤーは肉体を離れ、周囲を探索し、アイテムを集めたりすることができるのだ。「死んでもいないし、生きてもいない状態です。(ここが)『Continueしますか、しませんか?』と聞いているところです。ーー

 

だそうです。

 

思うに実は、赤ちゃんこそが「プレイヤー自身」なのではないでしょうか?
そう考えれば、三途の河で一人称視点なこと、体を探して現世に戻るビジュアルにも納得がいきます。

そして、探し出す体は、複数ある。それが並行した別次元の自分(他プレイヤーのノーマン)であり、その中に入ることで、他人のオープンワールドの情報と自分のオープンワールドの情報が統合される。
そうやって、死ぬ度に三途の河で、次に蘇る体(他プレイヤーのノーマン)を選び、他プレイヤーのオープンワールドと融合を繰り返しながら、多次元を1つに集束させていく。
ノーマンの体にあった複数の手形は、各プレイヤーが手を付けた印(情報統合した回数)なのではないでしょうか。
そして、敵もクトゥルフをモチーフとした存在。
赤ちゃんと同じく、敵も平行世界を跨ぐ存在なのだと思います。

 

クトゥルフ神話の神性の1つである「ヨグ=ソトース」

 

ーーヨグ=ソトースは時空の制限を一切受けない最強の神性にして、「外なる神」の副王とされる。時間と空間の法則を超越しており、全ての時と共に存在し、あらゆる空間に接しているという。「ひとつにして全てのもの」「全てにしてひとつのもの」ともいう。過去・現在・未来はヨグ=ソトースの中で一つであり、全存在(「外なる神」や旧支配者すらも)がヨグ=ソトースに含まれている。ーー

 

ビジュアル的にも、三途の河の水面で魂を捕食していた異形のモチーフは、ヨグ=ソトースの可能性が高く、この説明からも、異形は次元を超越した存在である事が言えそうです。

赤ちゃんや異形は多次元を認識できる存在。

このゲームは、多数の次元(オープンワールド)で構成された世界で、プレイヤー対異形 の構図で戦う物語なのではないでしょうか。

赤ちゃんの正体は、プレイヤー。
赤ちゃん(プレイヤー)は、多数の次元(オープンワールド)を集束させながら、同じく次元を跨ぐ存在である「異形達」と戦っていく。

 

7.デスストのテーマ

これらを踏まえ、デスストランディング のテーマを予想。

多次元(各オープンワールド)を認識できる存在である「プレイヤー」は「赤ちゃん」となって、多数の次元を集束させながら宇宙に胎動し、1つに集束した新たな世界に生まれ出る。

 

プレイヤーは「赤ちゃん」としてゲーム世界へ干渉し、他プレイヤーと協力しながら、各々のオープンワールドの情報を統合させていく。

そうして1つになった世界で、赤ちゃんが産まれることで、人類を新たな段階へ進化させる。ひいては「ゲーム」を新たな段階に進化させる。
それがデスストランディング のテーマだと予想します。

 

まとめ!! あらすじ予想!

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人類の進化は新たな段階へ辿り着く。
この世の遍く全てが、輪廻の理をもって存在している事が証明された近未来。
そんな折、人類によって開かれた第12の扉。

そこから現れた異形達が、輪廻の輪から生命の魂を断絶しようとしていた。
新たに人類の前に現れた脅威。為すすべなく侵略される世界。
しかし人類もまた、開かれた扉の先で、新たな力を手にしていた。
「異形の血と交わる赤子」
果たして、異形の力を取り込んだ人類は「新たな世界」に赤子を産み落とし、次なる進化を遂げる事ができるのか。

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なんてどうでしょうか?
さぁ!きたるE3!!めちゃめちゃ楽しみで張り裂けそうだぜええ!!!

 

最後まで読んで頂き有難うございました。
完全な妄想記事ですが、吐き出す事ができましたw
もし宜しければ、皆様のお考えをコメントで教えて頂けると、色々捗ります故、何卒〜!

 

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FF15 エピソードイグニス ネタバレ感想

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FF15ダウンロードコンテンツ

エピソードイグニスをプレイした感想を述べたいと思います!

今回のDLCは、他の2つ以上に大変満足しました!流石1年間作ってただけありましたね。

本編の空白が大分埋まって、完成に近くなってきました。頑張れ!FF15!もう少しで完成するぞw!

今後のDLCにも大期待です!!

あと、今までのDLC(エピグラ・エピプロ・エピイグ・戦友)を含めた状態で本編を流れでプレイ出来るようにアプデをお願いします!開発さんm(__)m

きっとやってくれると思って、待ちます。

 

ではエピソードイグニスのネタバレ感想です。

以下ネタバレあり

 

 

 

 

 

 

僕は、イグニスが「ノクトの幸せ」をどのように考えたかによって、今回のマルチエンドに分岐したんだと思っています。

 

使命の為に父が亡くなり、王の剣が亡くなり、ルーナが亡くなった。


それは、ノクトにとって使命の重さを再確認させる出来事だったと同時に、使命を全うする事こそが自身の願いだと考える後押しになりました。
特にルーナへの思いは大きな後押しとなしました。それは、アプデ後の追加シーンで「ルーナ。俺やるよ。約束する」と想いを呟いている描写でみてとれます。

 

プライナが幻覚を見せた時点では、将来ノクトがどんな想いに至り使命を果たすのかイグニスには分からない。
だから本編で、「決めるのはノクトだ」という事を常々言い、使命とは何か、幸せとは何か、を考える時間をノクトに与えていたんだと思います。

 

そして使命の決心をしたノクトは最後に死ぬ事になります。
しかし、死後の不可視世界でノクトはルーナと結婚して幸せになれた。

 

どうして死ぬ事が幸せなのか。と思う人もいるかもしれません。


でも、自ら決心した使命を全うし、ルーナを不可視世界に1人にせず、ルーナを愛しルーナに愛される者として隣で幸せに笑う結末は、2人とイオスの星とそこに住む人間にとっての幸せなのではないでしょうか。

 

イグニスはノクト自身にノクトの使命を考えさせ、何が幸せなのかをノクト自身に考えさせた。
「ノクトの幸せ」とは、ノクトが自ら考える結果なのだと。

それが本編のエンディングであったと思います。

 

一方のIFエンド。
こちらでは、「ノクトを犠牲にはさせない」というイグニスの決断によってイグニスが負傷してしまいます。そして仲間の危機によってノクトは本編とは違う経緯で使命を全うする決意をします。

 

実は、このイグニスの行動は「ノクト自身が考える使命と幸せ」を考慮した決断ではありません。
イグニスが一方的に下した行動であり、自分本位な決断なのです。
結果、ノクトは生存することになります。が、その隣にルーナの姿はありません。
イグニスは、ノクトの幸せの形から「ルーナの隣で微笑む事」の選択肢を、結果的に奪ってしまったのです。

 

ノクトの幸せの選択をイグニスが導く話。

それがIFのエンディングなのです。


正に「イグニスの決断が主人公の想いに作用する」という、キャラクターDLC然とした内容ですね!

 

生きている方が幸せ。
死んでも恋人の隣で笑う方が幸せ。
仲間といた方が幸せ。

様々な幸せの形。

様々な考え方を尊重し、認め合う。
それが本編の物語の終わり方であり、それ故にIFエンドも生きてくる。

なんて綺麗な本編とIFの相互性ではないでしょうか。

ダンガンロンパV3 ネタバレ有り感想

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先日、「ダンガンロンパV3」をクリアしました!!
まさかここまでハマってしまうとは自分でもビックリですw
この作品について少し思う事があり、感想を書くことにしました。

例によってネタバレ有りですので注意してください!

では以下、「ネタバレ有り」の感想です。

 

 

 


① 「プレイ後の簡単な感想」


歴代のダンガンロンパをプレイしてきた身として、今回のダンガンロンパV3の結末には、すごく感動しました。ダンガンロンパ1や2も高いハードルを超えてくれる作品達でしたが、ダンガンロンパV3は更にそれらを超えましたね!

恐れ多いですが、製作陣を讃えたい。そんな気持ちにさせてくれた作品です。
ここまで尖っていて尚「ダンガンロンパ」らしい作品に仕上げる、その制作の裏には並々ならぬスタッフの努力と超えねばならぬハードルがあったでしょう。それを思うと、それだけでこの作品を大切にしたいと思えます。
僕はこの「ダンガンロンパ」なら応援したいと思えるし、今迄支持してきた「ダンガンロンパ」は、こういう作品でした。

 

②「ダンガンロンパシリーズへの失望」


ダンガンロンパ」はこれまでに外伝を含め、漫画、小説と様々なメディアで作品の世界観を拡げてきました。そしてその度に、多くのファンが付き、肥大化し、徐々にダンガンロンパの本質を薄めていくことになります。ゲームの1、2でこの作品にハマった僕は、このメディアミックス展開に違和感を感じてきていました。
違和感が顕著になったのは、アニメのダンガンロンパ3を見た時です。
アニメのダンガンロンパ3が発表された時、当初の僕は「週に2回別々のラインのダンガンロンパアニメを二本走らせる」試みに胸を躍らせたものです。どんな驚きを見せてくれるのかワクワクしていました。
しかし、実際にアニメを見てみると1、2の登場人物達の補完に終始し、このアニメの放送形態ならではの表現が少なかった。
僕はこの時点で、ダンガンロンパは終わった。と思いました。
ファンの望む展開、補完に終始した「ダンガンロンパ」は消費物に成り下がり、ただただ作品寿命を薄く伸ばしながら金儲けしていくだけ存在になったのだと、もうこのスタッフ達の才能は枯渇したのだと、ある種の失望を感じたと思います。
しかし、V3をプレイし終えた今は理解できます。
実はダンガンロンパ3で感じた消費物感すらもV3の結末のための前振りであったのです。
主人公たちが消費物からの脱却を図る
V3の物語は、僕の望んでいた、尖った「ダンガンロンパ」だったのです。

 

③「ダンガンロンパキャラゲー?その本質とは?」


よく「ダンガンロンパキャラゲーである」とする声を耳にします。だけど僕は違うと思っています。
僕の解釈では「ダンガンロンパ」におけるキャラクター要素は、作品を構成する1つの道具にしか過ぎず、ミステリー要素、SF要素、アドベンチャー要素、それらの要素全てが、「先のわからない奇想天外なゲーム」を作る為に存在している。
有名な声優を惜しげもなく起用し、キャラクターデザインと設定に力を入れ、デスゲーム外の日常風景を細く描写しているのは、犯人の正体をボヤかし、推理ゲームとしての推理を撹乱して「先のわからない奇想天外なゲーム」を作る為でなのです。
そして、今回のV3はその「先のわからない奇想天外なゲーム」そのものなのです。
賛否両論であるV3のオチも「ダンガンロンパ」の本質の結晶なのです。

 

④「V3の結末」


V3のオチが、ダンガンロンパの過去キャラクターの存在を否定しているという人がいますが、僕はそうは思いません。
最原達は、フィクション上で自身達の命を散らしながら「ダンガンロンパシリーズという消費物」からの脱却を図る事で、その影響をノンフィクションの世界にまで及ぼし、フィクションとノンフィクションを超えたところに自身達の生きた証を刻みました。
これは、最原達フィクション作品の登場人物の現実世界への挑戦です。
最原達の挑戦は、ダンガンロンパの過去作のキャラクターや死んでしまったキャラクターをも「消費物としていずれは世の中から忘れ去られる存在」から「フィクションとノンフィクションを超えた唯一の存在」へと昇華したと言えるのです。
一部のファンは、ダンガンロンパ1、2の世界が無かったものになってしまう様に思っているみたいですが、その考え方こそがV3の物語のなかで最原達が脱したかった世界なのではないでしょうか。
フィクションであることを提言しただけで飽きられる存在。
フィクションであることを提言しただけで冷められる存在。
そんな消費物的存在から抜け出したいからこそ、最原達は最後にダンガンロンパを否定したのではないでしょうか。
V3の物語がどうであろうとダンロン1、2の彼らの物語が変わるわけではないし、僕らがゲームをプレイして得た感情が偽物に変わってしまうわけでもない。
そもそも、1も2もV3もスパイクチュンソフトが作った「ゲーム」なわけでこの世に存在しないもの。
そこに命を見出し、愛情を注いだ、究極の結果が「ゲームを脱した存在にさせる」ということなのです。
ダンガンロンパの制作スタッフは、一部の消費物愛好的ファンより、余程キャラクター達への愛が深いのではないでしょうか。

 

⑤「最後に」


クリエイターのこの作品への愛。

賛否は起ころうともそれでもファンに理解されると信じた勇気。
それに僕は感動しました。
スタッフや最原達が信じたように、僕も自分で決めた道をひたすらに信じられる人間でありたいですね。

コナン映画の傑作!!名探偵コナン から紅の恋歌

名探偵コナン から紅の恋歌」感想

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先日行ってきました!
実は、夜は短し歩けよ乙女かゴーストインザシェルを見る予定だったけど、殆ど上映が終わってた。。゚(゚´Д`゚)゚。

そこで何の前情報も入れていなかったコナンを見ました。

結果、最高の体験をさせてもらいました!!(*≧∀≦*)

製作陣に感謝の言葉を述べたいです。

 

[感想]

ゴールデンウィークの初日ということもあり、当日の会場内は中高生のカップルと親子連れが多かったです。

流石コナン映画。

若い世代にコナンというコンテンツが受け入れられていて結構嬉しくなりました。

 

しかし、僕が最後に映画館で見た純コナン映画は、天国へのカウントダウン

 僕は不安がこみ上げてきました。

30も近いおっさんがコナンを楽しく見ることが出来るのか。

 

そんな不安をかき消すように始まった映画の予告。
そして本編が始まると、そこには見慣れないキャラクター達の姿がありました。

 

「ああこれが今回のゲストキャラクターかぁ」と思っていると、そこへ現れるコナン達。
昔から変わらないコナン達のやりとりでした。

 

懐かしい感傷に浸っていると、お馴染みのBGMに合わせて掛かるいつものナレーションが。

 「俺は高校生探偵の工藤新一!」

 何とも言えない感覚に心踊り胸を高鳴らせてしまいましたよ。

 変わってない。

 青春時代の淡い思い出を思い出しながら観るオープニングは絶品ですね。

 

しかし、ここから少しずつ、だけど着実に「何か」が変わっていることを感じはじめました。

 作中で表現される、所謂ギャグシーン。
周りの小中高生は笑ったり、小さな会話をしたり、それを楽しんでいる。

だけれど、僕はそれを笑えない。

 僕の青春は終わってしまっていた。

(無邪気に笑う君の顔も忘れてしまったのか。
脳裏に焼きつく思い出は色褪せたセピアの色。)

 

「ああこれが僕のコナンだったのか」

そう思った時、訪れたあるシーンに僕は衝撃を受けました。

平次と和葉がピンチになり、コナンが助ける。という場面。
コナンの機転でピンチをくぐり抜ける場面。

僕は自分の中の溢れ出しそうな感情を抑えることが出来ませんでした。

そうか。そういうことだったんだ。
僕はコナンを楽しめなくなったんじゃない。
コナンには楽しみ方がいっぱいあるということに、自分が気づいていないだけだったんだ。

 

思えば、20年ぐらい毎週やっている「名探偵コナン」には2つの面白さがあります。
いやそれは、20年間続けていく中で醸成された、「名探偵コナン」という作品の2つの顔です。

1つは、ラブコメを主軸とした真面目な推理物。

もう1つは、毎週の話で作り上げられてきた「名探偵コナン」というアニメの「お約束」を土台としたシュールアニメとしての顔。

 

例えば、放送当初は新鮮で斬新だった「毛利小五郎を裏で操り、事件を解決するギリギリのスリル」。

これも長年の放送のなかで、ある種の「お約束」と化しました。

放送初期は推理時にコソコソ隠れていたコナンも、最近では実に大胆に、蘭や歩美達の目の前で推理するのです。
その姿はまるで「盲点星をつけたドラえもん」、「トムを騙すジェリー」の如く。

 

そんな「お約束」が、当たり前になった近年のコナンは、実にシュールな面白さを持っている。
言うなれば、裏コナンであります。

 

今作の平次和葉コナンのシーン。パラボラアンテナを使った脱出劇で、僕は僕が気づいていなかった本当のコナンの面白さに気づいたのです。

 

裏コナンの面白さに気づいたのです。

 

そこからの劇場での観賞。

また1つ。また1つ。

寄せては返す感情の渦に飲まれそうになる自分を律しながら、コナンの新たな楽しさに心を震わせました。

ギャグシーンは、真打ちであるシリアスシーンの布石になり、コナン達が真面目に喋れば喋るほど僕は目に涙を溜め、溢れ出す感情を必死に堪えました。

 

推理や状況説明のパートは会話のテンポが重要視されていて、さながらシンゴジラの会議シーンを思い出してしまう。

誰が犯人なのか、どんなトリックなのか。

それはまるで饒舌な落語。もしくは上質なライムを綴る子気味良いラップの如く、音と雰囲気を楽しむ要素に変化していきます。

 

しかし、この映画が本当に描きたいのは平次と和葉の恋の行方です。
物語全体を通してそれは見事に描かれています。

 

本作は、近年のコナン映画が忘れていたであろう「ラブコメ」「アクション」「推理」のバランスをちゃんと持ち合わせながら、長年で培ってきた「裏コナン」の要素を全面に押し出した傑作なのです。

 

GWの始まりをこの映画で彩れて、本当に良かった。

 

本作は、一本の映画作品としてみてしまうと、コナン映画の中でも下から数えた方が早いでしょう。

しかし、それは面白くないということではない。

僕はこの作品は、コナン映画の論評に於いて今後10年は語られていく傑作であると確信しています。

 

今作は是非是非、「劇場」で観ることを勧めます!

 

今作は「青春時代をコナンで過ごし、コナンの面白さを忘れかけた世代」の人間達こそ観て欲しい怪作なのです!!

 

超絶ネタバレ有り。ニーアオートマタ ネタバレ 感想

追記&文章改変しました。

 

 

[今回の記事はネタバレ全開です!!]

 

まだプレイされてない方で興味のある方は、ネタバレ無しの記事も書きましたので宜しければそちらをどうぞ!

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※ 初見は情報を見ずにプレイした方が絶対に良いです!
注意して下さい!

 

では、以下ネタバレ有りの感想です!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「命もないのに殺しあう」

 

クリアした今となっては、すごく秀逸なキャッチコピーですよね!

命を持たない者たちの心の葛藤を描くことで"存在,,というテーマを浮き彫りにしています。

 A2や9S、パスカルの最後の選択だけに留まらず、サブクエやウェポンストーリーに至るまであらゆる所に"存在,,というテーマを仕込んでいてゲーム全体が大変美しいです。

そして選択肢を沢山用意してプレイヤーに選択させることで、作品のテーマや問いかけにプレイヤーが答えを強制されることがないのが良かった。

ゲームにしかできない、インタラクティブな作品になっています。

 

本作は周回前提の内容ですが、その度に新たな謎が展開されていく構造になっています。なので飽きることなく最後まで楽しむことができました。

予算と容量をを節約しながら、良いものを作るために工夫をする。その創造性はすごく日本らしい。

お金を掛けまくってリッチなゲーム体験を提供する、洋ゲーとは真逆の発想です。日本にしかできない細やかな気配りと作家性があって、日本産ゲームのあるべき方向性を明確にしていると思います。

 

[ゲームプレイ]


1周目は2Bを使ったプラチナイズム全開のゴリゴリ3Dアクションと様々な形のシューティング。
2周目から使う9Sでは"ハッキング,,が加わり、レトロシューティングゲームの要素がプラスされる。
3周目はプラチナアクションとシューティングとレトロシューティングゲーム

 ゲーム序盤からシューティングの要素が散りばめられ、その度合いは周回ごとに徐々に強まっていき、それが最後の弾幕シューティングへの伏線になっている。完璧なバランスだと思います!

 

レトロシューティングは、本アクションとのゲーム感そのものを変えることで、アンドロイドがネットワークに潜る感覚を再現することにも一役かっています。それがプレイヤーのゲーム世界への没入感を高めてくれています。

 このシューティング要素は、世間では賛否両論だけれど、僕はシューティング大好きなので心を射抜かれました。

シューティング要素はゲームの発売日まで一切公開されず伏せられていたし、ゲーム開始直後がシューティングシーンだったので、これは確信犯でしょうw

そのからかい具合が、実にヨコオタロウさんらしいですw

 また、
ゲーム起動直後からアナウンスされるオートセーブの排除予告にも笑いましたw

 それに伴った義体システムはデモンズソウルの血痕システムのそれですが、ただ真似るのではなく世界設定や物語形成にまで落とし込んでいてオリジナルなものになっています。

 

[物語の話]

 

今作は、アンドロイドと機械との代理戦争の話です。

アンドロイドと機械は「戦いに勝つ」という目的を創造主に与えられています。

創造主のために戦うことが存在意義。

その中で、機械は生きる意味を多様に見出していこうとします。
そして、アンドロイドも機械と触れ合うことで少しずつ生きる意味の多様性に気付き始めるのです。

しかし、突然訪れる真実の開示。

双方の創造主は既に死亡していた。
創造主の死亡は、存在意義の喪失。
生きる意味の多様性を考える以前に存在意義自体を失ってしまう。


そんな中で、なんとか生への意味を見出そうとする9S。

 

彼は、2Bこそが自身の生きる意味だと思いはじめる。
しかし、2Bを激しい戦いの中で失ってしまい、世界への存在意義と同時に生きる意味すら失ってしまう。

 

一方、2Bを介錯したアンドロイドのA2。

 

彼女は、創造主を裏切った脱走兵。
かつての仲間も全員死んだ。
存在意義が無い。
生きる意味もない。

 

この世に何も執着がなくなった彼らが互いに殺し合う姿は、実に虚しく悲しく美しいのです。

そして死の間際に2人は、亡くなった人達が自らの生きる意味であったと確信しながら絶命する。

それは、死ぬことこそが彼らの救済であるかの如く。

 

そんな中、これまでずっとアンドロイドを随行支援していたポッドの存在が、非常に重要な役割を果たします。

ポッドはアンドロイドを俯瞰して見ていました。

複数のポッドが情報交換することで形成された感情や意思とは、キャラクターを俯瞰でみているプレイヤーの感情や意思そのものなのです。
そのポッドに最後のシーケンス(アンドロイドの生死)を選択させることでプレイヤーをゲームの中に引き入れているのです。

 

そして、最後のスタッフロールシューティングでの選択。

 

業苦の中ででも意味を見出して生を選択するのか。

安堵を求め死を選ぶのか。

それはポッドたちの選択であるが、同時にプレイヤーの選択でもあります。

 

Eエンドをみて、生に救いを見出すのか。
Eエンドを見ずに、死に救いを見出すのか。

プレイヤーに投げかけ、選ばせる。

生きることの意味を、死ぬことの意味をプレイヤーに考えさせる。

これまでのヨコオタロウ作品の傾向からみても、ニーアオートマタではヨコオタロウ自身は恐らく、C・Dエンドが最終結論なのだと思います。

 

製作者の物語への結論は、死による救済。


それを否定するのか。
または受け入れるのか。

 

Eエンドで製作者の名前を全て壊すのは、製作者の意志へのプレイヤーの反抗のメタファーであるように思うのです。

それは、自らのゲームを壊させるクリエイターの自殺願望とも取れるし、この世と生への希望をプレイヤーに託しているようにも思えます。



ゲームの構造と物語を融合させ、尚且つプレイヤーとゲームの壁をも飛び越えて、この物語の結末をプレイヤーに委ねる。

これから僕たちがどんな選択をして、数年後このゲームの結末がどの様になっているのか。すごく楽しみです。

 

自らのセーブデータを他者の願いに託し、託された人が、また他者の願いを祈る。
この螺旋が続く限り、世界への希望。生きることへの希望は存在するのかもしれないと僕は思いました。

 

いやぁ、すごいゲームです!
まだまだ言ってない魅力がギュウギュウに詰まっていて ミルフィーユみたいな物語とゲーム構造なんですよね!

ゲーム業界全体で考えても、TOPクラスに心に深く刻まれた作品になりました。

次回作に大いに期待しつつ、これからもこのゲームをやり込んでいこうと思います。(^O^)

 

長文を読んでくださり、ありがとうございました!

 

(追記)    色々調べました。

 

現実に存在した哲学者サルトル。彼が唱えた、存在の定義。このゲームはサルトルの哲学論をゲームの構造自体に落とし込んでいますね!(サルトルが定義した即時存在と対自存在。即時存在は、物が世にあることで存在が定義される。対自存在は自己を意識することで存在が定義される。人間は対自存在。)
ゲームの最後、生きることに意味を見出すのか死ぬことに意味を見出すのかをプレイヤーに自ら選択させること。
その「選択する」ということ自体が対自存在の定義である「自己を意識する」ことになっている。
最後に選んだ結果が各プレイヤーの物語の答えとなる本作は、サルトルの存在の定義そのものを表現しきっていますね。

それでいうとヨルハ部隊を抜けて存在意義を失っても尚、自らの生きる道を探して生きてきたA2は、このゲームを一番体現しているキャラクターなのかなと思いました。

 

また次の記事で会いましょう!
アデュー!!

パクリとリスペクトの話。

(この文章は殴り書きに近い、荒いものになります。書きたいから書きますw)

 

パクリとリスペクトの話。

昨今、「真似をする」ことを「パクリ」と「リスペクト」に分ける風潮があります。

「パクリ」は盗み。
「リスペクト」は模倣。

だけど、僕は違和感を感じるんです。


いやいや、どちらも模倣だし、どちらも盗みと言えますよ。
愛があろうが、理解があろうが、許可を得ていようが、無許可であろうが、真似は真似。 盗みであり模倣であり真似ですよ。

いくら言葉を分けて見た目を変えても意味がないです。

綺麗な言葉で誤魔化してるように思えます。

僕は、創作の基本は、「真似」「盗み」「模倣」だと思っています。

何の下地もなく、なにかを作り上げるなんて神様にしかできないですよ。

文化的遺伝子が連綿と受け継がれる人間の歴史の中では、どんな人でもどんな物でも、どう足掻こうと何かの真似をしています。
そうやって物を作っているんです。

僕が言いたいのは、「パクリ」や「リスペクト」といった「真似する」ことを、細かく指摘などせず、許容しあっていこうよってことです。

例えば、歌手のカバー曲。
例えば、イラストの構図流用。
例えば、物語の設定の模倣。

同じ曲を歌っても、構図が同じ絵を描いても、世界設定が同じ物語を作ろうと、オリジナルの作品と全く同じものにはなりません。

極論でいうと、歌であれば、同じ声、同じ音、同じ歌詞、同じ歌い回し、で歌を歌ってもオリジナルと全く同じ物は出来ないはずです。

だって同じ人間は1人として存在しないのですもの。

ただし、本質を複製する事になれば話は別です。
(ここで言う本質とは、作品ごとの核のことです。)

それをしてしまうのが、「イラストのコピー」であったり、「誰かの楽曲をそのまま自分名義する」ようなことです。

これはダメ!

作品を売ることによって得た利益は全て、その作者が受け取らなければならない。

作品の本質の複製はせず、その作品の良さは真似をして、作品を作る。

それを心掛けていれば、言葉に縛られることなく、良いものが創造できる世の中になるような気がします。

 

 

何が言いたいのかゴチャゴチャになりましたw

ちょっと思うところがあって文章に残したくて筆を取りました。

お目汚し失礼しました!

これで少しでも何が言いたいか伝わるかな

 

 

ニーアオートマタ ネタバレ無し

「ニーアオートマタ」

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奇才、ヨコオタロウ氏が生み出す一癖二癖もある物語とゲームデザイン。それをプラチナゲームズが制作するという完璧な布陣で作り出したゲーム。

 

先日寝ずにやってクリアしました!(^o^)

それはもう命を削りながらやりましたよw

 

結論から言うと、すご〜〜〜く面白かったです!!ワンダフル!!

 

高いお金を出して限定版を買っただけの甲斐がありました。というか、それ以上の良い体験をさせてもらいました。

 

「感想」

制作発表時、プラチナゲームズが制作すると聞いた時から「アクション」には期待をしていましたが、予想通り、すごく良かったです!

 

 むしろそこだけじゃなくて、前作でも採用されてた「カメラの強制位置固定」や「ノベル要素」などのニッチな要素をこれでもかとぶち込み、それでいてゲーム全体のバランスがとれていたのは、プラチナゲームズの制作陣の愛と技術とセンスの賜物ですね!!

 

しかしだからと言って、インディーズ感が無い訳ではなくて、各所をわざとアンバランスにするというバランスの取り方もしててその具合も美しいw

 

ゲーム全体としての完成度で言えば、完璧に近いんじゃないかな。

 少なくとも私的美的センスでは、すごく整ってました!!

 

 

「物語」

物語の内容もすごく良かった!!

 今回はSF色が今までのヨコオ作品に比べて強いです。

「荒廃した世界での機械同士の代理戦争」
「心を持たない者たちと人類の行き着く先にあるもの」

 SF好きの僕は超大歓喜ですよ!(*≧∀≦*)

 

また、ヨコオゲーの物語の特徴と言えば、基本的に鬱ゲーと呼ばれています(見方によっては様々な風に捉えることができますが)。

 悲しかったり、哀しかったり、切なかったり、クスッときたり。その上で何かを感じ取るという表現。それが従来からのファンを魅了してきました。

 こういった表現はもちろん今作も健在であります!
是非色々な人に楽しんで欲しいですw
(ゲス顔

 

 

「音楽」

前作に引き続き岡部さんの創る音楽が素晴らしい!

 「色々な人々の暮らしの中に混在する、澄んだ川の流れや錆びた鉄骨の匂い」のような清濁を併せ持った表現の音楽。

 ゲーム内で、すごく気を遣って繊細な音の魅せ方をしていると感じました。

 今回もサントラ購入確定しちゃううう!!

 

 

「キャラクター」

今作のキャラクターデザインも素晴らしいです!!

全体的に黒と白を基調にしたデザインは、荒廃した世界感とマッチしていて独特な世界を作り上げています。

 各所で話題になっていますが、2Bちゃんが超カワイイですw

 もちろん、美ショタな9Sや女性にモテる美しい女性的なA2も良い!w

 

 

「まとめ」

実は先ほど文章を書く為にプレイを思い出していると涙しそうになりましたw。

 でも
誰かが亡くなるとか不幸なエピソードを思い出す様な、過去を振り向いての負的な涙ではありません。

 

前を向いて流す涙。

 

僕はゲーム中に最後の展開を迎えた時、「安易な感動」の体験ではない、「心が震える」ような体験をしました。

 それがプレイし終えた後も余韻を残すんです。


私事ですが、僕が生まれてから初めてゲームを遊んだ、幼き頃のあの日から幾年も時が経ちました。

 若輩ものですが、こんな僕でも挫折や喜び、出会いや別れ、色々な出来事がありました。

 そしてそれは僕だけに限った事ではなく、世界中の人たち、勿論本作のディレクターのヨコオタロウさんも同じだと思います。

 

前作「ニーアレプリカントゲシュタルト」から本作が発売するまでにも8年もの歳月が流れています。

 

この世に生まれて、ヨコオさんが経験した事、変化した事、想った事。

そこに製作者全員の培った経験や技術が加わりできた作品。

 

本作は、間違いなく現時点での、ヨコオタロウの集大成だと思います。 

 

たしかに本作は万人にウケるような内容ではないですが、一部の人の心に深く美しく思い出が残る作品です。

 

「本当に、ゲーム史の1ページに大きく名を刻んだなぁ。」と自信を持って言えます!

 製作者の皆さんには脱帽です。


是非色々な人にプレイして欲しいと思います。

 

 ここまでお読み頂き、ありがとう御座いました!!

次回はネタバレ有りで感想書きたいです!

それではまた次の機会に!!

アデュー!!