星を駆ける列車の窓辺

主に好きなアニメ、ゲームについて書いていきます。

ネタバレ注意「すずめの戸締まり」考察

ネタバレ注意「すずめの戸締まり」考察

先日、友人と観に行ってきました。観終わった後、友人とあれこれ語っていたのですが、その中で随分と合点がいった考察ができたので、文章として残したいと思います。

 

見終えた直後の感想は「エンタメが適度に持続して面白かったな」くらいでした。そこから友人と語り合う中で、友人の「この物語って結局、スタート地点から動いてなくね?」という言葉が発端となり、自分はこの物語を理解するには、「ダイジンとは何だったのか?」を考えないといけないなと思いました。

 

以下はその時の思考の殴り書きです。

 

起点;友人「堂々巡りで動きのない話やったな」自分「たしかに、、。いやそれ自体がテーマじゃないか?」

 

考察トピック

①要石(ダイジン)の存在

②なぜ草太は3本足の椅子になったのか

③最後に二人は何を選択したのか

 

・昔から日本人は要石で厄災を封じてきた

・その場所は時々で転々と変わっている

・草太の家系は代々閉じ師である。

・草太のお爺さんがサダイジンを尊んでいる

・草太が代わりに要石になりかけていた。

 

以上のことからダイジンは元人間で先代の閉じ師であり、今は要石として神に近い存在になり厄災を封じていると考えられる。

 

そして私は「君の名は」「天気の子」「すずめの戸締まり」は、角川春樹の「カエルくん東京を救う」が共通した下地であると考えている。(東京で地震地震のメタファーがミミズなど)

 

「カエルくん東京を救う」は、「じつはこの世界は誰かが人知れず犠牲になって厄災を防いでくれているんじゃないか」というもので、「今現在というものは誰かが人知れず守ってくれた結果である」というメッセージが込められた作品。

 

「君の名は」では三葉と瀧の経験と思い出が犠牲になることによって、災害が最小限に抑えられる。逆に「天気の子」では帆高が陽菜の犠牲を拒否し、災害を受け入れた。いづれにしても「君の名は」と「天気の子」はどちらも、世界の裏側で人知れず犠牲になってきた人々を描きつつ、"今"を生きている人々を鼓舞する内容になっている。

 

それらのテーマを鑑みると、「すずめの戸締まり」のダイジンはこれまでの日本を支えてきた先代の閉じ師であり、世界の裏側で人知れず犠牲になることで、いずれ訪れる災害を抑えるという役割を担った、先代の老人であると想定できる。

 

ダイジンが「すずめの子になれなかった」と言っていたのも、輪廻転生的な意味で子どもになろうとしていたか、もしくは猫としてすずめの家族になろうとしていたか。いずれにしても生まれ変わろうとする行為。

 

すずめに「嫌い」と言われて萎えたり、交流して瑞々しくなる姿は、老人が孫と接する姿そのもの。

 

ダイジンは代替わりを狙っていたが、サダイジンは自らの意志でミミズを鎮めようとしていたので、まだ社会の役割を担う意志があったといえる。

 

そういえば巨大化後のサダイジンはどことなく草太のお爺さんに似ていた。サダイジンはお爺さんの直系の先祖か?

だから、お爺さんは先代のサダイジンを敬っていたし、サダイジンは願いを聞き入れて、すずめを見守り、要石の役割を全うしようとしていたのではないか。

 

①の結論;ダイジン(要石)とは先代の閉じ師であり、最後の社会的役割を担っている老人である。

 

①を想定すると②の答えも見えてくる。

 

②ダイジンは草太を椅子に変え、要石になるように誘導する。厄災を防ぐという自らの役割を終え、代替わりを狙っていた。

つまり、老人が社会での役目を終えて、次世代の若者に社会的犠牲の代替わりを強要していたとも言える。

 

そう考えると、3本足の椅子はスフィンクスの謎かけが由来ではないか。

 

すずめが幼少期に貰った椅子は4本足。時が経ち、すずめから大事にされることを忘れられた椅子は、杖をついた人間の如く、壊れかけた3本足の椅子となる。

 

②の結論;若者の草太を3本足の椅子に変える行為は、次世代の若者に要石の役割を担わせるプロセスを描いている。

 

では若者二人はダイジンの望み通り、日本社会の犠牲になったのか。そうはなっていない事は本編を見た通りである。

 

③若者二人が最後に選んだ答えは、「君の名は」のように自身が犠牲になることではなく、「天気の子」のように世界を捨てることでもなく、あがりを決め込んだ老人に要石の役割を延長させるというものだった。

 

しかし、それはただ無責任に老人に犠牲を押し付けるというものではない。すずめは自身が犠牲になる覚悟があったし、草太も一度はそれを受け入れていた。しかし、若い彼らは生きる事を求めた。日本社会の構造に気づき、自らの使命に気づき、そして延命を求めたのである。

③の結論;二人は自身たちの現状と先代の役割の延期を求めた

 

昔から日本人は、いつか来る終わりに向かって、破滅しそうになるとその度に祈りを捧げ、厄災を抑え、自然と共に生きてきた。

 

生と死の円環の中で、一つの扉を閉じ、また新たな扉を開く。そうやって日本人は過去と未来を繋いできた。

 

すずめが物語の最後に出会ったのは、震災で別れた母ではなく過去の自分。すずめは自分に出会って初めて気づく。あの時、命を渡してくれたのは母でもあるが、なにより自分自身であり、すでにもう受け継いでいたのだ。

 

自分自身が生きる事を望んだから今がある。生きる事教えてくれたのは母。母は先代から受け継ぎ、先代は先先代からそれを受け継いだ。

 

要石の役割はいつかは成す。でも今ではない。もう少しだけ今を生きて、いつか必ず未来に繋げる役割を果たす。

 

そんな円環に気付き、少しだけ前を向く物語が「すずめの戸締まり」なのだ。

 

 

 

(ネタばれ無し) 「このゲームは神ゲーではない!」デスストランディング 評-ゲームデザイン編 その1

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デスストランディング の私的評価が定まってきた。

結論から言うと、「デスストランディング 」は神ゲーではない(理由は最後に)。でも、今年一番ハマった。そして"オープンワールドゲーム"で初めて最後まで完走した作品になった。

従来のOWゲームはフィールドを大きくするあまり、点在するメインミッションやサブミッション、ミニゲーム間の距離が遠くなり、"移動"にかかる比重が増えていった。

しかし、ゲームの歴史の中で"移動"は、その快適性を高める方向にしか進化していなかった為、どこまでいっても"ファストトラベル"が終着点となる。フィールドを広くすればするほど、箱庭である必要がなくなってしまう。

また、OWゲームはミニゲームやサブミッションで、如何に多くの寄り道ができるかという方向にも進化してきた。その為、遊びの要素を増やせば増やすほど、主軸の遊びの優先順位が下がり、ゲームの骨子となる部分に副次的な印象を与えるようになってしまった。

 


これら2つのジレンマを、従来のOWゲームは常に抱えていた。

 


そこでデスストランディング は、「移動」を"遊びの主軸"に据える事で、フィールドの広さに必然性を与え、箱庭であることに意味を持たせている。

また、従来のOWゲームにおけるミニゲームの要素を"移動の過程"に入れ込んでしまうことで、主軸の遊びの優先順位も下げていない。

デスストランディング はOWゲームのジレンマをアイデアで解消しているのである。

僕がこのゲームを最後までプレイできたのは、この部分が大きいんじゃないかなと推測している。

 

考えてみれば、"移動すること"それ自体を楽しむゲームは今までにもあった。それも一番有名なゲームで。「マリオブラザーズ」である。

小島監督は、伝説の存在である「マリオブラザーズ」に倣い、OWゲームにステージ攻略という要素の原点回帰を図ったのだ。

更に、それだけに終わらせず、インターネットを使った遊びを1人用OWゲームに織り込み、ゲームを次の段階に進めたのである。(ストランドシステムについては、また後日)

そんなデスストランディング 。僕は冒頭で、このゲームは神ゲーではないと言った。

が、その真意は「ゲームを次の段階に進めた作品に、従来から存在する"神ゲー"という言葉を当てはめるのには違和感を感じる。」ということだ。

 

「デスストランディング は"神ゲー"ではない」

 

ふさわしい言葉が見つからないが、僕が言うとするなら、デスストランディング はゲームの進化の結び目。ホモ・ルーデンスが創った作品。

 

 

"人類が遺す芸術品"である。

「さらざんまい」の1話時点での予想

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「さらざんまい」の1話を観ました!

まだまだ謎が多い第1話でしたが、すごく面白かったです!的外れになるかもしれませんが、現時点での予想を書きます。

気になったキーワードは「箱」「河童」「つながる」「欲望」「浅草」

 

たぶん「箱」のモチーフは、安部公房の「箱男」じゃないかな。

 

箱男」は、箱をかぶった男が箱の中から世界を覗き見する事によって、自分と他者の関係を「世界」と「匿名」に分けてしまうという話。

この場合「匿名」になった箱男は「世界」から消えて好き放題に外を観察ができるが、同時に「自分自身の存在」も消えてしまう。

 

よって「匿名」を被る行為は、自由を手に入れるのと引き換えに、自分自身を捨ててしまうことであり、現代の僕達にとってこれはドンピシャな題材である。


インターネットの普及、SNSの浸透によって、人々は何時でも誰とでも繋がれるようになった。このブログ自体が良い例だ。


皆が皆「匿名」を被って、互いにつながり、自由を行使する。犯罪行為や不貞行為、その他の良くないとされる事を、互いに探し合い抑止する。秘密は「共有しあえる程度の秘密」であることが前提となる。


しかし、人に言える「良い事」だけに塗り固められた自分自身は、果たして本当の「自分」なのであろうか。


「さらざんまい」は物語の冒頭で主人公が「この世界はつながりに溢れている」と言う。

まさに"このアニメは現代を写している"というメッセージから始まるのである。


「さらざんまい」の登場人物の3人が持っている「箱」とは、自身が手中に収めた"人に言えない秘密"、各々の「欲望」であり、それを持つことで「自分自身の存在」を確立している。


しかし、物語の中盤で3人は「河童」によって「尻子玉」を抜かれる。


古来から、河童に尻子玉を抜かれた人間は"ふぬけ"になると言われており、文字通り3人は「自分自身」を失くした"ふぬけ"になってしまう。


じゃあ「箱」=「欲望」はどこにいったのかといえば、箱を被った「カパゾンビ」に吸収されてしまう。


この「カパゾンビ」こそ、安倍公房の「箱男」。「匿名」を被った、"自分"の無い、生きてるのか死んでるのか分からない存在なのである。


終盤、3人はその「カパゾンビ」から尻子玉を抜いて、自身の「箱」=「欲望」を取り戻すんだけど、代償として互いの秘密を漏洩してしまう。


果たしてこれからの3人は、自分だけの「秘密」=「箱」=「欲望」を共有しあっても「自分自身」を保てるのだろうか。

そして、真に「つながりあえる」のであろうか。

という内容なんじゃないかな。


あと「箱」は「パンドラの箱」でもあると思う。

ギリシャ神話では、ゼウスに持たされた「パンドラの箱」を、自身の欲望に負けたパンドラが開けた結果、全ての災いが世に出てしまう訳なのだが、箱の底には"希望"が残る。


「さらざんまい」の3人が持っている「箱」の中身も、女装趣味での"なりすまし"であったり、その他様々な欲望ではありそうだが、最終話では希望が残るという示唆なのだろうか。


エンドロール後に、2人の警官が「カパゾンビ」の根源っぽい人から「欲望搾取」しているが、その時に出てくるアイコンが「イタチ」っぽい。


「イタチ」は古来より"妖怪視"され、イタチが数百年生きた妖怪は「テン」と呼ばれる。

広島県ではテンを殺すと火難に遭うと言う伝承が存在しているらしい。


また「浅草」を含め"江戸"は火災都市と言われるほど昔から家事が多かったらしい。


「さらざんまい」で「欲望搾取」している警官2人は「2匹のテン」であり、人々から「欲望」を奪う事で、強制的に「つながる」存在にさせようとしているんじゃないかな。


そして最終的に「欲望搾取」しすぎて大火事が起こると予想。


と長々と書きましたが、「現時点での予想を書きたい欲望」を吐き出して、今回の僕の「秘密の漏洩」は終わろうと思うディッシュ!

FF15 エピソードアーデンの感想とFF15に思う事。

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FF15 エピソードアーデン」をクリア。

 


ケジメとしてプレイしたけど、DLCのクオリティも徐々に上がっていて、思いのほか楽しかった。

それだけに、後3作品がないのは悔しい。

これだけは絶対に出すべきだと今でも思うし、エピソードアーデン自体がそういった内容だった。

 


色々批判されているFF15ではあるけれども、実は物語の内容的な破綻はしていないと僕は思っている。

本編ゲームクリア当初は「オープンワールド」と「王都奪還の物語」の咀嚼が悪いと感じて、「なんで早く奪還しなきゃいけないのに、チンタラBBQしたり観光したりウェーイしてるんだよw」と思った。大学生の旅行かよ!と。

 

でも「大学生の旅行」というのは言い得て妙だった。

 

FF15」は未熟な主人公達が現実から目を背しながら、でも一瞬一瞬を楽しく懸命に生きる。

これは現実の「大学生」やそれに準ずる年代に共通した感覚なんじゃないかなと。

 

物語中に彼らが置かれた状況は決して楽観できるようなものではない。

しかし誰もがそうであるように、現実の状況を自らの目で見て実感することでしか"自らの人生"には向き合えない。序盤の"彼ら"のように、学生はその多くが、青春の延長としての「永遠に楽しい時間」を求めたくなるのではないだろうか。

 

プレイヤーはその感覚を作中の4人とともに「オープンワールド」で体験する。自由に遊び、冒険し、まだ見たことの無い「新しい出来事」に触れて少しずつ「世界の大きさ」を理解していく。

まだ1人の学生だったノクト達は、自分達も「社会を構成する一部」である事に気付いていく。

「社会のレール」の上にいると。

 

「社会」というのは、学生にとっては未知の領域であり、感覚としては「社会のレールに乗る」というより「社会のレールに乗せられている」というものではないだろうか。

 

「社会」を作中では、彼らの「運命」として描いている。

 

オープンワールド」で世界の大きさを実感し、世界の真実に触れるにつれて、彼らは「運命のレール」に乗せられていく。

物語は前半の「オープンワールド」からその名の通り「レールゲーム」にシフトしていく。

「運命のレール」のうえでノクトは様々な試練を経験し、「レールに乗せられている」のではなく自らの意思で「レールに乗る」という感覚を得る。

 

この意識変革は現実の世界でも重要だ。

 

僕達は決して「社会」からは逃れることはできない。けれど、その上で自己の意識を変えることはできる。「社会のレール」の上で自己を確立することはできる。

「運命のレール」に乗ったその結果、作中でノクトは最期に死を迎えるが、果たしてそれは不幸なことなのだろうか。

「社会のレール」に乗った僕達にだって、最期には死が待っている。しかしその結果は皆が不幸では無いはずだ。

ノクトであっても僕達であっても「死」という"結果"は大して重要ではない。それまでの過程で得た"覚悟"、自らの意思で「レールに乗る」という"自発的な意識変革"こそが、人生に置いて重要なのではないだろうか。

それを「オープンワールド」から「レールゲーム」への変遷の中で体験する。最期(ゲームの終わり)は決まっているけど、「オープンワールド=青春」で得た様々な経験、感情、想いがいつまでも残る。

 

そんなゲームになっていると僕は思う。

 


[最期に]

本来ならば「エピソードアーデン」から始まる「未来への夜明け4部作」で、「運命」からも解き放たれる「人類」の新たなるステージが体験できた筈なので、それがなくなった事は本当に残念でならない。

 


そしてFF13シリーズと同じく、最期は神殺しの展開によって、「実は僕達の現実こそが"運命"から解き放たれた世界であり、僕たち自身もいつか"社会"から自由になれる存在なんですよ」という希望が現実に繋がる円環構造になっていたと予想してしまう。

今回配信されたエピソードアーデンのローンチトレイラーの名前が「ルシの真実」だったので、この予想は近いんじゃないかな。

 


だから小説が楽しみでもあり、それがゲームで出来なかったことが残念でもある複雑な気分。

 


スクエニFF15の失敗を糧にして次作を展開してほしい。

今回、「ゲーム」は物語部分を完成させてから発売すべきだということが明白になった。

後付け云々に関しては正直どうでもいい。ゲーム作りの性質上、殆どの作品は後付けの連なりだと思うから。

 


スクエニの次作がFF15で得た教訓を生かしたものである事が確認できるまで、スクエニの作品は買いません。

あと「未来への夜明け」の残り3つの再制作を少しだけ期待しながら、今回はこの辺で!

 

 

 

 

デスストランディング 予想!!

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いや〜今年も「E3」が迫ってきましたね!
色々なゲームの発表が、今からすごく楽しみです。
僕は、生粋の小島秀夫ファンなので、勿論!!「deathstranding 」が本命な訳なのですが、ここいらで「E3」に向けて「ストーリー」と「ゲームプレイ」の予想をしておこうかなと思います。

PV1  https://youtu.be/2hSaMJ4GS64

PV2  https://youtu.be/zHFYSR1J5Fk

PV3  https://youtu.be/0kBjkFNoePY

 

目次
1.ゲームの舞台は何処か。
2.ゲームの構造その一
3.ノーマンとマッツ
4.異形の正体
5.ゲームの構造その二
6.赤ちゃんの正体
7.デスストのテーマ

 


1.ゲームの舞台は何処か

デスストを考える上で、まず最初に考えたいのはゲームの舞台。
参考にしたのは「兵器」です。

pv2、沢山の兵隊達が行脚しているシーンで兵隊が持っている銃は、「Mー1〜3カービン」。飛んでいる飛行機は、「p47」に見えます。
これらは全て、第二次世界対戦中に使われた兵器なのですが、pv2最後に出てくる「兵士達を操る司令官らしき人物」は、WW2以降の1994年に開発された後継機「Mー4カービン」を持っています。
使用武器の年代がバラバラですが、少なくともここで分かるのは、デスストは「地球」を含めた舞台の設定である可能性が高いということです。

 

では、「時代設定」いつなのか。


参考にしたのは、pv1でノーマンがつけている「手錠」とpv3でノーマン達が身につけている「ロボティクスアーム」。

「手錠」は、青色に発行しており、既存の手錠には見えません。また、「ロボティクスアーム」も既存の道具には見えませんでした。
技術的にも現代では再現できそうに見えません。
これが「近未来のもの」なのか「あり得たもう1つの現在」なのかは分かりませんが、ここでは、2つを合わせて「あり得たもう1つの近未来」であると仮定します。

デスストの舞台は「あり得たかもしれない地球の近未来

 

2.ゲームの構造その一

ゲームシステムについて、小島監督が明言している事がいくつかあるのですが、その1つが、「生と死の循環システムーコンティニューシステム」です。

 

以下 インタビュー記事抜粋
ーー小島監督によれば「DEATHSTRANDING」における死は次のようになっているようだ――現実世界に戻る準備が出来たら、自分の肉体を探し出して中に入る。しかし、通常のゲームとは違い、「DEATH STRANDING」はプレイヤーの死を認め、かつ歓迎すらしているようだ。プレイヤーは死ぬ直前ではなく、自分が死んだ直後の世界に戻る。――「DARK SOULS」やローグライクの作品のように、プレイヤーの行動はある意味、死後もインパクトを残しているのだ。ビデオゲームならば死のメカニクスはどこにでもあるが、小島監督は三途の川や転生にインスパイアされたシステムを作っているようだ。ーー

 

この発言から、ゲームシステムの一部に「生と死の循環システムーコンテニューシステム」が組み込まれていることは確実です。

更に、PV内で、ストーリー上においても「生と死の循環」が組み込まれていることが読み取れる描写があります。

それがPV1での、「臍の無いノーマン」です。


「臍が無い人類」という設定が出てくる有名な著書に、アーサーCクラークのSF小説「都市と星」があります。

 

「都市と星」 あらすじ

ーー遙か未来、銀河帝国の崩壊によって地球に帰還することを余儀なくされた人類は、誕生・死さえも完全管理する驚異の都市ダイアスパーを建造、安住の地と定めた。住民は都市の外に出ることを極度に恐れていたが、ただひとりアルヴィンだけは、未知の世界への憧れを抱きつづけていた。そして、ついに彼が都市の外へ、真実を求める扉を開いたとき、世界は…ーー

 

この物語では、ダイアスパーで生死を管理された人類は、死しても新たな肉体に同じ精神で舞い戻ることが可能になっています。
そして、その能力を持った人間は、「新たに生まれることがない」その証として臍がないのです。

PV1の「臍の無いノーマン」は、死しても新たな肉体に同じ精神で舞い戻ることができる存在であることの示唆、だと僕は考えています。
しかし、あくまでも同精神で戻れるのはノーマンだけの能力。
PV3の海が、「三途の河」や「生命が還る場所」としての描写であるとすれば、そこには様々な生物が確認できたので、「生と死の循環」自体は全ての生命に存在する輪廻転生的な設定だと考えています。

ゲーム構造の1つに「生と死の循環システムーコンティニューシステム」がある。
その能力を持っていることの示唆が、「臍の無いノーマン」であり、ストーリーにも「生死の循環」が組み込まれている。

 

3.ノーマンとマッツ

登場人物達にはどのような設定があるのでしょうか。

PV3内のノーマン達が着ている防護服に、「porter(運搬者)」「死体処理班」の記述があります。
どういうこっちゃ?と一瞬思いましたが、先に考察した「生と死を循環」とPV3の出来事を念頭に置けば、なんとなく見えてきました。

PV3で出てくる異形に捕まったノーマンの仲間をもう1人の仲間が射殺してしまいます。そして、自身も異形に捕まると銃で自決しようとしています。
これは、異形に捕まることが「死」よりも怖いと思っているということではないでしょうか。
だから、死体袋に入った人間も異形に捕まって消える時に、「イヤイヤイヤ!!」となっていたんじゃないかな。

「死」よりも怖い。つまり、異形に捕まるということは、「生と死の循環」から外れるということ。だからこそ、ノーマン達は死体袋が異形に捕まる前に処理しようとしていたんじゃないか、と思います。
死体袋を運搬するから「porter」。

 

一方の、マッツ達。
PV2の終盤に兵隊を引き連れていたマッツがとっていたハンドサインとPV3で防護服の男がとっていたハンドサインが一緒なので、どちらも同じ人物だと思います。
PV3でマッツがハンドサインをすると、ノーマン達が異形に襲われました。このことから、マッツ達はノーマンの敵だと考えます。
マッツは、異形を操る存在か又は操られる存在で、ノーマン達と対称の目的を持っているのではないでしょうか。
つまり、マッツ達は異形にノーマン達や死体袋を捕食させて、「生と死の循環」から外そうとしているのではないかと思います。

PV3の海の中、臍帯のついた生物は動いていましたが、一部の人間は動かず海面に浮いていき、異形に捕食されている描写がありました。この人達は現世で異形に魂を捕食されて「生と死の循環」から切り離された存在であることの示唆なのかなと思います。

ノーマン達は死体処理班。彼らは人々が異形に捕食されることを防ぎ、「生と死の循環」から外れないように魂を守ることが目的。
マッツ達は人々を異形に捕食させて、人々の魂を「生と死の循環」から外すことが目的。

 

4.異形の正体

では、人々を捕食する異形の正体は何なのか。
PV3では、様々な形の異形が登場していますが、どの異形の特徴も当てはまる存在が出てくる作品群があります。それが「クトゥルフ神話」です。

 

以下wikiより抜粋

ーー「クトゥルフ神話」パルプ・マガジンの作家であるハワード・フィリップス・ラヴクラフトと友人である作家達の間で架空の神々や地名や書物等の固有の名称の貸し借りによって作り上げられた架空の神話体系。太古の地球を支配していたが現在、地上から姿を消している強大な力を持つ恐るべき異形のものども(旧支配者)が現代に蘇ることを共通のテーマとする。そのキャラクターの中でも旧支配者の一柱、彼らの司祭役を務め、太平洋の底で眠っているというタコやイカに似た頭部を持つ軟体動物を巨人にしたようなクトゥルフが有名である。ーー

 

クトゥルフ神話には様々な神がいます。
PV3の光る巨人をよく見てみると、頭部にタコの足の様なものが生えています。これは「クトゥルフ」が由来なのかもしれません。

 

クトゥルフ
ーータコに似た頭部、頭足類のような触腕を無数に生やした顔、巨大な鉤爪のある手足、水かきを備えた二足歩行の姿、ぬらぬらした鱗かゴム状の瘤に覆われた数百メートルもある山のように大きな身体、背にはドラゴンのようなコウモリに似た細い翼を持った姿をしているとされるーー

 

また、光る体は、「イゴール・ナク」が由来なのではないでしょうか。

 

イゴール・ナク」
ーーその真の姿は、頭部が無く、裸で両手に口のある太った男の姿をしている。そして体は白熱しているという。
悪行と背徳の邪神であり、自らが直接手を下さず、崇拝者に悪事を行わせることにより、精神的な堕落をこの世にもたらす。悪の素質がある人間がイゴールナクと接触を持つと、イゴールナグはその者を唆し、更なる悪行と堕落を行わせる。
悪に堕落しきった所で、その者に乗り移って吸収する。吸収した人間の姿から真の姿まで、変幻自在に変身できるという。ーー

 

イゴール・ナクの説明の、「悪の素質を依り代に力を貸す性質」から、マッツは異形を操っていると同時に、操られている状態であるとも言えそうです。

マッツを吸収しきった物語終盤では、マッツが異形そのものに変身するかもしれませんね。

PV3で、降る雨は、小島監督曰く「タイムフォール」と呼ばれるものらしいです。

別の世界の雨であり、雨に触れたものは、急速に時間が経過するらしい。

これは、クァチル・ウタウスの時間干渉能力が由来なのではないでしょうか。

 

「クァチル・ウタウス」

ーー時空を外れた辺獄のような領域に住むとされる人間型の神。小さい子供ほどの大きさしかなく、悠久の時の中で朽ち果てたミイラのような萎びた姿をしている。
手足はひきつれて硬直して動かない。頭髪も目鼻もなく、全身がひび割れのような網目状の皺に覆われている。
 スミスの「塵を踏む者」の記述では「一度も呼吸したことがない中絶胎児のようだった」とある。
時間に影響を与えることができ、不死の力を与えると信じられ、魔術師に求められる。 クァチル・ウタウスに触れたものは例外なく即座にとてつもない時間が経過したかのごとく塵と化す。この性質のため、クァチル・ウタウスに対して害を与えようとする行為の全ては無意味であると断定されている。ーー

 

ここで気付くのですが、クァチルウタウスの説明にある「不死の力を与える」という一文。

これは「生死の循環」のモチーフにあたるものに思えます。クァチルウタウスが主人公側の設定にも一枚噛んでいるということではないでしょうか。
そう考えれば、主人公側にクァチルウタウスの特徴を持った存在がいる事にも気付きます。
そう「赤ちゃん」です。


ー人間型の神で、一度も呼吸したことがない中絶胎児ー


これが正に、「赤ちゃん」のことを指しているのではないでしょうか?

 

敵の正体は「クトゥルフ神話」の神々をモチーフにした侵略者達。マッツに力を与え、取り込もうとしている。「クァチルウタウス」は主人公側の「赤ちゃん」のモチーフでもある。

 

5.ゲームの構造その二

明言はしていませんが、小島監督が仄めかしているネットワークシステムがあります。

 

小島監督
ーー「アクションゲームに登場するツールのほとんどは“棒”です」「殴るか、撃つか、蹴るか。コミュニケーションは常に“棒”を通して行われます。(DEATH STRANDINGでは)人々に“棒”で交流するのではなく、“縄”に相当するものを通じて交流してほしいと思っています…もちろん棒を使うこともできますが」
「今までのオンラインゲームとはちょっと違います」「今はまだ言えませんが、オンラインは重要な要素です。今までのオンラインゲームとは違ったことをやりたいのです」ーー

 

どうやら小島監督は、「縄」を使ったオンラインシステムを考えている様です。

更に、それは従来のゲームのオンライン要素とは一味違う。


では、それはどういったものになるのか。

 

最初の取っ掛かりとして、PV1の中でノーマンが付けているネックレスに注目してみました。
6つのドッグタグのような物には様々な数式が書かれています。
数式の意味を調べてみると、シュワルツシルト半径 やディラック方程式 などの現代物理学であることがわかりました。
これらの数式は、全て宇宙の理を紐解く断片であるとされています。
それをノーマンが身につけているという事は、「デスストランディング 」の世界設定に、現代物理学を用いた宇宙の理が関係している様な気がします。

実は、小島監督は数年前に現代物理学の1つとされる、ある学説をツイッターでRTしていました。


それが、「超ひも理論」です。


超ひも理論、、、ひも、、縄、、うむむ!!何かヒントがありそうです。

僕は、「超ひも理論」が、オンラインシステムの構成要素になるのではないかと予想しています。

 

ーー超ひも理論とは物質の究極の要素は「粒子」ではなく「ひも」であるというもの。
超ひもの世界は10次元である。通常、4次元空間は直線上になっているが、残りの6次元は丸く閉じている。
そのひも同士には相互作用があり、たとえば2つのひもが重なって1つのひもになることがある。
また、超ひも理論を唱える上で重要な超対称性理論。それは、既知のすべての粒子に未発見のパートナーが存在するとする理論である。ーー


宇宙は、多次元で構成されており、どの粒子にも、それぞれ対応した異なるパートナーが存在している。

さらに丸く閉じコンパクト化された異なる次元は、1つに集束されたりもする。

全てはひもで繋がっており、そこを振動することによって、1つが全てに影響する。

 

これは!!!オンライン要素に使うにはぴったりの設定です!

 

超ひも理論とゲームの世界設定を併せて考えると、デスストランディング の宇宙は多次元の平行世界で構成されており、それぞれに対応した異なるパートナー(キャラクター)が存在している。

そして、それぞれの世界は1つに集束していく。
全ては、ひもで繋がっていて、各世界の出来事は宇宙全体に影響する。という事じゃないでしょうか。

 

オンラインシステムとして具体的に言うと、各プレイヤーはそれぞれのオープンワールドを探索進行していく。

やがて、ノーマンを基点にそれぞれのオープンワールド情報が重なっていき、1つのオープンワールド(宇宙)になる。


これまでの、ゲームのオンライン(互いの世界に介入し、協力や対立するもの)ではなく、自分の世界を他人の世界と融合させていき、全てがオンラインで繋がるゲームを小島監督は考えているのではないでしょうか。

デスストランディング のオンライン要素は、自分のオープンワールドと他人のオープンワールドを1つにしていくもの。

 

6.赤ちゃんの正体

「生と死の循環を使ったコンティニューシステム」と「各プレイヤーのオープンワールドを融合していくオンライン要素」を考えると、新たに導き出せることがあります。

それが、赤ちゃんの正体です。

PV3で死んだノーマンが三途の河に沈んだ後、現世で抱いていた赤ちゃんが体の中に入っています。その後にノーマンは現世で目覚める。
これは「クァチルウタウス」が由来の「赤ちゃん」とノーマンが契約を交わし、不死の力(同精神で肉体に戻る能力)を得た描写ではないでしょうか。

 

そして小島監督曰く、

ーープレイヤーは「DEATH STRANDING」で死ぬと、この場所(三途の河)に送り込まれ、一人称視点で周囲を探索することができる。ノーマンの特殊な能力により、プレイヤーは肉体を離れ、周囲を探索し、アイテムを集めたりすることができるのだ。「死んでもいないし、生きてもいない状態です。(ここが)『Continueしますか、しませんか?』と聞いているところです。ーー

 

だそうです。

 

思うに実は、赤ちゃんこそが「プレイヤー自身」なのではないでしょうか?
そう考えれば、三途の河で一人称視点なこと、体を探して現世に戻るビジュアルにも納得がいきます。

そして、探し出す体は、複数ある。それが並行した別次元の自分(他プレイヤーのノーマン)であり、その中に入ることで、他人のオープンワールドの情報と自分のオープンワールドの情報が統合される。
そうやって、死ぬ度に三途の河で、次に蘇る体(他プレイヤーのノーマン)を選び、他プレイヤーのオープンワールドと融合を繰り返しながら、多次元を1つに集束させていく。
ノーマンの体にあった複数の手形は、各プレイヤーが手を付けた印(情報統合した回数)なのではないでしょうか。
そして、敵もクトゥルフをモチーフとした存在。
赤ちゃんと同じく、敵も平行世界を跨ぐ存在なのだと思います。

 

クトゥルフ神話の神性の1つである「ヨグ=ソトース」

 

ーーヨグ=ソトースは時空の制限を一切受けない最強の神性にして、「外なる神」の副王とされる。時間と空間の法則を超越しており、全ての時と共に存在し、あらゆる空間に接しているという。「ひとつにして全てのもの」「全てにしてひとつのもの」ともいう。過去・現在・未来はヨグ=ソトースの中で一つであり、全存在(「外なる神」や旧支配者すらも)がヨグ=ソトースに含まれている。ーー

 

ビジュアル的にも、三途の河の水面で魂を捕食していた異形のモチーフは、ヨグ=ソトースの可能性が高く、この説明からも、異形は次元を超越した存在である事が言えそうです。

赤ちゃんや異形は多次元を認識できる存在。

このゲームは、多数の次元(オープンワールド)で構成された世界で、プレイヤー対異形 の構図で戦う物語なのではないでしょうか。

赤ちゃんの正体は、プレイヤー。
赤ちゃん(プレイヤー)は、多数の次元(オープンワールド)を集束させながら、同じく次元を跨ぐ存在である「異形達」と戦っていく。

 

7.デスストのテーマ

これらを踏まえ、デスストランディング のテーマを予想。

多次元(各オープンワールド)を認識できる存在である「プレイヤー」は「赤ちゃん」となって、多数の次元を集束させながら宇宙に胎動し、1つに集束した新たな世界に生まれ出る。

 

プレイヤーは「赤ちゃん」としてゲーム世界へ干渉し、他プレイヤーと協力しながら、各々のオープンワールドの情報を統合させていく。

そうして1つになった世界で、赤ちゃんが産まれることで、人類を新たな段階へ進化させる。ひいては「ゲーム」を新たな段階に進化させる。
それがデスストランディング のテーマだと予想します。

 

まとめ!! あらすじ予想!

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人類の進化は新たな段階へ辿り着く。
この世の遍く全てが、輪廻の理をもって存在している事が証明された近未来。
そんな折、人類によって開かれた第12の扉。

そこから現れた異形達が、輪廻の輪から生命の魂を断絶しようとしていた。
新たに人類の前に現れた脅威。為すすべなく侵略される世界。
しかし人類もまた、開かれた扉の先で、新たな力を手にしていた。
「異形の血と交わる赤子」
果たして、異形の力を取り込んだ人類は「新たな世界」に赤子を産み落とし、次なる進化を遂げる事ができるのか。

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なんてどうでしょうか?
さぁ!きたるE3!!めちゃめちゃ楽しみで張り裂けそうだぜええ!!!

 

最後まで読んで頂き有難うございました。
完全な妄想記事ですが、吐き出す事ができましたw
もし宜しければ、皆様のお考えをコメントで教えて頂けると、色々捗ります故、何卒〜!

 

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FF15 エピソードイグニス ネタバレ感想

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FF15ダウンロードコンテンツ

エピソードイグニスをプレイした感想を述べたいと思います!

今回のDLCは、他の2つ以上に大変満足しました!流石1年間作ってただけありましたね。

本編の空白が大分埋まって、完成に近くなってきました。頑張れ!FF15!もう少しで完成するぞw!

今後のDLCにも大期待です!!

あと、今までのDLC(エピグラ・エピプロ・エピイグ・戦友)を含めた状態で本編を流れでプレイ出来るようにアプデをお願いします!開発さんm(__)m

きっとやってくれると思って、待ちます。

 

ではエピソードイグニスのネタバレ感想です。

以下ネタバレあり

 

 

 

 

 

 

僕は、イグニスが「ノクトの幸せ」をどのように考えたかによって、今回のマルチエンドに分岐したんだと思っています。

 

使命の為に父が亡くなり、王の剣が亡くなり、ルーナが亡くなった。


それは、ノクトにとって使命の重さを再確認させる出来事だったと同時に、使命を全うする事こそが自身の願いだと考える後押しになりました。
特にルーナへの思いは大きな後押しとなしました。それは、アプデ後の追加シーンで「ルーナ。俺やるよ。約束する」と想いを呟いている描写でみてとれます。

 

プライナが幻覚を見せた時点では、将来ノクトがどんな想いに至り使命を果たすのかイグニスには分からない。
だから本編で、「決めるのはノクトだ」という事を常々言い、使命とは何か、幸せとは何か、を考える時間をノクトに与えていたんだと思います。

 

そして使命の決心をしたノクトは最後に死ぬ事になります。
しかし、死後の不可視世界でノクトはルーナと結婚して幸せになれた。

 

どうして死ぬ事が幸せなのか。と思う人もいるかもしれません。


でも、自ら決心した使命を全うし、ルーナを不可視世界に1人にせず、ルーナを愛しルーナに愛される者として隣で幸せに笑う結末は、2人とイオスの星とそこに住む人間にとっての幸せなのではないでしょうか。

 

イグニスはノクト自身にノクトの使命を考えさせ、何が幸せなのかをノクト自身に考えさせた。
「ノクトの幸せ」とは、ノクトが自ら考える結果なのだと。

それが本編のエンディングであったと思います。

 

一方のIFエンド。
こちらでは、「ノクトを犠牲にはさせない」というイグニスの決断によってイグニスが負傷してしまいます。そして仲間の危機によってノクトは本編とは違う経緯で使命を全うする決意をします。

 

実は、このイグニスの行動は「ノクト自身が考える使命と幸せ」を考慮した決断ではありません。
イグニスが一方的に下した行動であり、自分本位な決断なのです。
結果、ノクトは生存することになります。が、その隣にルーナの姿はありません。
イグニスは、ノクトの幸せの形から「ルーナの隣で微笑む事」の選択肢を、結果的に奪ってしまったのです。

 

ノクトの幸せの選択をイグニスが導く話。

それがIFのエンディングなのです。


正に「イグニスの決断が主人公の想いに作用する」という、キャラクターDLC然とした内容ですね!

 

生きている方が幸せ。
死んでも恋人の隣で笑う方が幸せ。
仲間といた方が幸せ。

様々な幸せの形。

様々な考え方を尊重し、認め合う。
それが本編の物語の終わり方であり、それ故にIFエンドも生きてくる。

なんて綺麗な本編とIFの相互性ではないでしょうか。

ダンガンロンパV3 ネタバレ有り感想

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先日、「ダンガンロンパV3」をクリアしました!!
まさかここまでハマってしまうとは自分でもビックリですw
この作品について少し思う事があり、感想を書くことにしました。

例によってネタバレ有りですので注意してください!

では以下、「ネタバレ有り」の感想です。

 

 

 


① 「プレイ後の簡単な感想」


歴代のダンガンロンパをプレイしてきた身として、今回のダンガンロンパV3の結末には、すごく感動しました。ダンガンロンパ1や2も高いハードルを超えてくれる作品達でしたが、ダンガンロンパV3は更にそれらを超えましたね!

恐れ多いですが、製作陣を讃えたい。そんな気持ちにさせてくれた作品です。
ここまで尖っていて尚「ダンガンロンパ」らしい作品に仕上げる、その制作の裏には並々ならぬスタッフの努力と超えねばならぬハードルがあったでしょう。それを思うと、それだけでこの作品を大切にしたいと思えます。
僕はこの「ダンガンロンパ」なら応援したいと思えるし、今迄支持してきた「ダンガンロンパ」は、こういう作品でした。

 

②「ダンガンロンパシリーズへの失望」


ダンガンロンパ」はこれまでに外伝を含め、漫画、小説と様々なメディアで作品の世界観を拡げてきました。そしてその度に、多くのファンが付き、肥大化し、徐々にダンガンロンパの本質を薄めていくことになります。ゲームの1、2でこの作品にハマった僕は、このメディアミックス展開に違和感を感じてきていました。
違和感が顕著になったのは、アニメのダンガンロンパ3を見た時です。
アニメのダンガンロンパ3が発表された時、当初の僕は「週に2回別々のラインのダンガンロンパアニメを二本走らせる」試みに胸を躍らせたものです。どんな驚きを見せてくれるのかワクワクしていました。
しかし、実際にアニメを見てみると1、2の登場人物達の補完に終始し、このアニメの放送形態ならではの表現が少なかった。
僕はこの時点で、ダンガンロンパは終わった。と思いました。
ファンの望む展開、補完に終始した「ダンガンロンパ」は消費物に成り下がり、ただただ作品寿命を薄く伸ばしながら金儲けしていくだけ存在になったのだと、もうこのスタッフ達の才能は枯渇したのだと、ある種の失望を感じたと思います。
しかし、V3をプレイし終えた今は理解できます。
実はダンガンロンパ3で感じた消費物感すらもV3の結末のための前振りであったのです。
主人公たちが消費物からの脱却を図る
V3の物語は、僕の望んでいた、尖った「ダンガンロンパ」だったのです。

 

③「ダンガンロンパキャラゲー?その本質とは?」


よく「ダンガンロンパキャラゲーである」とする声を耳にします。だけど僕は違うと思っています。
僕の解釈では「ダンガンロンパ」におけるキャラクター要素は、作品を構成する1つの道具にしか過ぎず、ミステリー要素、SF要素、アドベンチャー要素、それらの要素全てが、「先のわからない奇想天外なゲーム」を作る為に存在している。
有名な声優を惜しげもなく起用し、キャラクターデザインと設定に力を入れ、デスゲーム外の日常風景を細く描写しているのは、犯人の正体をボヤかし、推理ゲームとしての推理を撹乱して「先のわからない奇想天外なゲーム」を作る為でなのです。
そして、今回のV3はその「先のわからない奇想天外なゲーム」そのものなのです。
賛否両論であるV3のオチも「ダンガンロンパ」の本質の結晶なのです。

 

④「V3の結末」


V3のオチが、ダンガンロンパの過去キャラクターの存在を否定しているという人がいますが、僕はそうは思いません。
最原達は、フィクション上で自身達の命を散らしながら「ダンガンロンパシリーズという消費物」からの脱却を図る事で、その影響をノンフィクションの世界にまで及ぼし、フィクションとノンフィクションを超えたところに自身達の生きた証を刻みました。
これは、最原達フィクション作品の登場人物の現実世界への挑戦です。
最原達の挑戦は、ダンガンロンパの過去作のキャラクターや死んでしまったキャラクターをも「消費物としていずれは世の中から忘れ去られる存在」から「フィクションとノンフィクションを超えた唯一の存在」へと昇華したと言えるのです。
一部のファンは、ダンガンロンパ1、2の世界が無かったものになってしまう様に思っているみたいですが、その考え方こそがV3の物語のなかで最原達が脱したかった世界なのではないでしょうか。
フィクションであることを提言しただけで飽きられる存在。
フィクションであることを提言しただけで冷められる存在。
そんな消費物的存在から抜け出したいからこそ、最原達は最後にダンガンロンパを否定したのではないでしょうか。
V3の物語がどうであろうとダンロン1、2の彼らの物語が変わるわけではないし、僕らがゲームをプレイして得た感情が偽物に変わってしまうわけでもない。
そもそも、1も2もV3もスパイクチュンソフトが作った「ゲーム」なわけでこの世に存在しないもの。
そこに命を見出し、愛情を注いだ、究極の結果が「ゲームを脱した存在にさせる」ということなのです。
ダンガンロンパの制作スタッフは、一部の消費物愛好的ファンより、余程キャラクター達への愛が深いのではないでしょうか。

 

⑤「最後に」


クリエイターのこの作品への愛。

賛否は起ころうともそれでもファンに理解されると信じた勇気。
それに僕は感動しました。
スタッフや最原達が信じたように、僕も自分で決めた道をひたすらに信じられる人間でありたいですね。